君と僕との適切な距離という物が実はあって、
僕はそれを忠実に守り続けてきたんだ。



4、君と僕との適切な距離(SideH)






「…ぎーーーもーーーぢーーーわるいーー!!」

「自業自得だ。」

「玄冬ってば冷たいーーー!!!僕がこんなに苦しんでるのにーーー!!」

「ただの二日酔いだ。安心しろ。直ぐに治る。」

「う”ーーー。」

自分で上げた声によって、またもや頭痛を呼び起こされて、花白は寝台に倒れこんだ。
窓から差し込む光に、埃が照らされて、朝の爽やかさを演出している。それすらも何だか憎らしい。
素っ気無い玄冬の態度に、不満が増長する。
先程から、玄冬は、部屋についている申し訳程度のキッチンで、何やらごそごそやっている。
こんな所まで来て、キッチンを弄らなくてもと思うのだが、これはもう彼のライフワークのようなものだから仕方がないのだろう。
せめてもの意趣返しにと、背中を睨みつけていると、不意に玄冬が振り向いた。
手には、下の調理場から借りてきたであろう、一人用の土鍋。

「粥だ。これ位なら食えるだろう。」

さっきから何をしているのかと思っていたのだが、自分のためだったというのが解って、嬉しくなる。
…だが。

「…野菜入ってない?」

恐る恐るそう問えば、玄冬は涼しい顔でこう言った。

「あぁ、野菜だと解るようには入れていない。」

「〜っ!!」

「冗談だ。いくら俺とは言えど、体調悪くてただでさえ食欲のない奴に、無理矢理食わそうとは思わん。」

「…君の冗談は時々冗談に聞こえないんだよ。」

「何か言ったか。」

「…イエ。」

これ以上口を挟んで、野菜についての講釈等を始められてはコトなので、それ以上その話題は掘り返さない事にした。
両手で鍋を抱えた玄冬は、怪訝そうな顔をしながらも寝台の上の自分のもとに歩み寄ってくる。
そして、寝台脇に置いてあった椅子に腰掛け、鍋の蓋をあけた。途端立ち上る蒸気と、食欲を誘われる匂い。
二日酔いで、胃が荒れている状態だというのに、花白は思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。
そんな花白に気付いたのだろう。玄冬は柔らかく微笑んで、スプーンを鍋の中に浸した。
だが、それだけでなく。

「ほら、口開けろ。」

事もあろうか、中の粥をスプーンで掬い上げ、花白の口の前に突き出してきたのだ。
俗に言う、『あーん』という奴だ。

「……え…」

湯気を立てながら突きつけられた花白は流石に戸惑った。
確かに、花白は昔、ふざけてそれを強要した事はある。熱があって、それでもどうしても玄冬に会いたくて、城を飛び出した時だ。
発熱で、朦朧とした意識の中、玄冬の家の扉を叩いて。玄冬の顔を見た途端、緊張の糸が切れて、倒れてしまった。
あの時の玄冬の驚きようといったらなかったけれど、目を覚ましたときには玄冬はテキパキと世話を焼いてくれていて、
ほんのちょっとふざけて言った要求も、渋々ながら受け入れてくれて、とても嬉しかった覚えがある。
だが、自分はもう、あの時ほど子供でもないし、そんなに重病という訳ではない。
それでも、玄冬がこうしてくれるという事は、玄冬の中では花白を看病するときはこうするべしというマニュアルが出来ているのかもしれない。
つまりは玄冬の中では花白はあの時となんら変わっていないということだ。あの時の、不安定な子供のまま。
その原因は、多分に自分にもあるので、軽く反発は覚えるものの、余り強くは言えない。
それに、心の何処かで解っていた。これが、自分達の適切な距離なのだ。
時折、保護者のように世話を焼いてくれる優しい友達と、それに甘えてしまう自分という構図が。
そんな事を考えながら、スプーンの先を見詰めていたのは思ったより長い時間だったらしい。

「どうした?」

などと、余りにも自然な玄冬の問いが聞こえて。
…観念する事にした。というか、少し嬉しくもあったのだ。
やり方はどうあれ、玄冬は花白を心配してくれている。

「ううん…」

やはり僅かな躊躇は残ったものの、花白はスプーンに向かって首を伸ばした。
湯気が顔に当たって、何だかくすぐったい気持ちになる。ゆっくりと口を開いて、スプーンの中の物を食べようとした。
…瞬間。

ボトッ

「…へ?」

一瞬何が起こったか解らなかった。
ただ、目の前にあるのは、不自然な傾きのスプーン。
反射的に下を向くと、粥が布団の上に落下して、大きなしみを作っていた。

「…玄冬?」

思いもかけない事態に、思わず顔を上げると、玄冬はスプーンを手にしたまま首を振った。

「何でもない。」

「…は?」

突如発せられた言葉に、首を傾げると、またもや玄冬は首を振った。

「何でもないんだ。」

「いや、何でもないって…」

「本当に、何でもない。」

玄冬はそう言うと、いきなり立ち上がったため、あっと思った時には既に遅く、
膝の上に乗っていた、土鍋が重力に従って落下し、出来立てのお粥が、床の上に散らばった。

「「………」」

お粥の余りに無残な姿に、思わず顔を見合わせる。玄冬は、心底絶望した顔をしていた。
確かに、食材を無駄にする事を極端に嫌う玄冬にとっては、凄まじい痛手で、余りにもらしくないミスだ。

「…玄冬?大丈夫?寧ろ君の方が体調悪いんじゃないの?」

それに、顔も赤いし。そう付け足して、額に手を伸ばす。熱を測ろうと思ったのだ。
だがその瞬間。パシッという乾いた音がした。

「………え……?」

一瞬何が起こったのか解らなかった。
思わず自分の手に目をやってしまう。玄冬の額に伸ばしたはずで、今はベッドの上に落下している手を。
そこで漸く悟った。払いのけられたのだ。この、手を。

「……くろ、と……?」

緩慢な動作で顔を上げると、玄冬はしまったという表情をしていたものの、目を合わせてくれなかった。

「すまない。だが、俺は本当に大丈夫だから。触らないでくれ。」

謝っているのに、目を見てくれない。

「…あ、…うん…なら…いい、けど…」

そう言って笑った自分の笑顔は酷くぎこちなかっただろうと思う。

玄冬と自分には適切な距離という物が実はあって、自分はそれを忠実に守り続けてきた。
それなのに。
何故突如変化は訪れるのか。思いもかけない展開に、花白は途方にくれてしまった。
床に散らばった粥から上る湯気は、まるで心を映すように揺れていた。