5、恋愛対象というものは(SideK) 零れた粥を手早く片付け、薬を貰って来るからと言って逃げるように部屋を後にした。 物問いたげに見詰めてくる花白に、居た堪れなくなったのだ。 扉を閉め、部屋から己を隔絶すると、玄冬は扉の前でずるずるとしゃがみ込んだ。深く重い溜息を吐く。 不味い、と思った。 本当にもう、今度という今度は不味いと思った。 あの日からどんどん自分は土ツボに嵌まっているという自覚はしていたが、今日という今日は本当に酷い。 好意から伸ばされた手を払いのけてしまうだなんて。 …あの日から。 あの日というのは、言わずもがな、あの娘に勘違いされた日のことだが。 いつもと同じ事をしているはずなのに、感情が勝手に揺れ、行動があまりに不審だ。 まるでドミノ倒しのように、状況が、悪いほうへ悪いほうへと傾いていく。 手を払いのけた瞬間の花白の顔が忘れられない。 何故あんなことをしてしまったのか。 何故あんなふうに言ってしまったのか。 何故あんな対応をしてしまったのか。 自分で自分が解らない。 「あー…」 どうにもならない苛立ちに煽られて、くしゃりと前髪を掴む。 うんざりとした気分で、立ち上がる気力もなく、暫くそのまま項垂れていると。 「お客様!どうかされましたか!?」 慌しく駆け上がってくる足音が聞こえた。 緩慢な動作で顔を上げると、見覚えのある顔が自分をのぞき込んでいる。 人の顔を覚えるのはそう得意ではない玄冬だが、それでも、自分のこの混乱の原因ともなった娘の顔は覚えていた。 一つにきっちりと結ばれた茶色の髪。大きな栗色の瞳。 間違いない。以前、ベッドメイキングに来て、玄冬と花白の関係を誤解した娘だ。 それを認識してから、漸く先程の声が脳に到達した。 『どうかされましたか?』 そう言われた。ぼんやりとした頭で答えを探る。己に問う。 …どうかしたかと言われたら自分は。 「ご気分が優れないのであれば至急…!」 「俺は」 「…え?」 (俺は…) 「…あんたの言葉で、今激しく混乱してる。…恋人だとか、友達だとか。」 「…お客、様?」 娘は酷く戸惑った顔をした。 その表情が、先程の花白と重なって見えた。 先程の花白も、こんな風に戸惑い、途方に暮れた顔をしていた。そして、ほんの少し、傷ついたような顔を。 そんな顔をさせたいんじゃないのに。いつも笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。 誰よりもそう思っているはずなのに、何故見知らぬ人間からのたった一言に振り回され、あんなことしか出来なかったのか。 「…俺は、自分で自分が解らん。」 「解らない、ですか……?」 「…あぁ。」 「あの、その、申し訳ありません。私、もしかして余計な事を…」 しどろもどろにそう言って、泣きそうな顔をする娘に、漸く玄冬は現状を理解した。 どうかしていたと思う。自分はずっとその言葉に思い悩んできたが、この娘がそれを覚えているかなど甚だ疑問であるし、 しかもこの娘が今玄冬の元に来てくれたのは、玄冬の体調を心配しての事なのだ。 それをあんな風に言われては、確かに泣きたくもなるだろう。 「あ、いや、謝らないでくれ。そうじゃないんだ。俺が、勝手に混乱してるだけであんたが悪いんじゃない。すまなかった…」 焦って、言い募る玄冬にだったが、時既に遅しで、娘は泣き出してしまっていた。 「いや、その、だな…」 「どうされました?お客様。」 突如聞こえた声に、反射的に顔を上げれば、階段の所に、一人の女性が立っていた。 背中までの、見事なブロンドに、空色の瞳。すらりと伸びた手足に、しなやかな肢体。 まるでどこぞのモデルのように綺麗な女性で、玄冬の好みをまるで絵に描いたような女性だった。 だが、今はそれに気を取られている場合でもない。 「いや、その、すまない。俺が、訳の解らないことを言って泣かせてしまったんだ。だから、」 「何を、悩まれているのですか?」 玄冬の言葉を遮った言葉の内容に、思わず目を見開いた。 「…聞いていたのか?」 「ええ。立ち聞きするつもりはなかったのですが、その子の泣き声に釣られて来てみれば、つい。」 確かに、この宿は2階建てで、そんなに広いという訳でもない。 1階のにまで泣き声が聞こえたとて不思議ではないだろう。そして、心配して追いかけてきたとしても。 「……あんたも、ここの従業員か?」 「ええ。ついでに、この子の恋人です。」 「恋人…?」 「えぇ。」 にっこり。そんな音がしそうな程愛想の良い笑みを向けられて、突っ込みが出来ない空気が発生する。 思わず、自分の腕の中で泣いている娘を覗き見れば、顔を真っ赤にして俯いていた。 どうやら、この女の言う事は本当らしい。 『…その、私、そういう事に理解あるんで、その、気にせず続けて下さい。』 そう言った彼女を思い出して妙に納得してしまう。 「見ての通り、私は厄介な恋をしていますから、貴方のご相談にも乗れるんじゃないかしら?」 「……」 まるで見も知らぬ人物。今一言二言話しただけの赤の他人。 そんな人物に、今の自分の状況を話すのは、普段であれば気の引けることだ。 だが今は、藁にもすがる気持ちだった。 「………俺には、一人、友人が居るんだが…」 そう言って話し出す。 今までの一連の事件を。自分の奇怪な行動を。 勿論、全てを話したわけではなく、気恥ずかしい所は適当にはぐらかしておいた。 玄冬が話している間、女は殆ど口を挟まず黙って話を聞いていたが、これで話は終わりとばかりに黙り込むと、 徐に女性は微笑んだ。 「貴方にとって恋愛対象とは何ですか?」 「…恋愛対象というもの…?」 「そう、貴方にとっての恋愛対象というもの。」 「………」 突然の質問。しかも答えの用意されていない質問に、 眉間に皺寄せ、玄冬が黙り込むと、女は小さく笑った。 「いざ言おうと思うと、言えないでしょう?それだけ漠然としているものなんですよ。恋愛感情なんて。 恋愛対象って言って、はっきりと言い切る人も居ますけど、それも、ただ言葉にする事で線引きしているだけだと思うんですよね。 実際は感情の問題なんだから、何が起こるかは解らない。」 私が、この子を好きになったようにね、と付け足すと、娘は照れたのか、頬を真っ赤にして俯いた。 「貴方の中では、友人というのは恋愛対象にはならないという思いがあるかもしれない。それはそれでいいでしょう。 でも、それら全ての思いはとりあえずおいておいて、考えてみてください。」 「おいて、考える…?」 「そう、本当に好きな人というものを。」 「本当に、好きな人…」 「好きな人っていうのは、一緒に居ると楽しいだとか、笑っていて欲しいだとか、側にいたいだとか思う人のことじゃないですか?」 そう言って微笑む顔はとても綺麗だ。金髪で、健康そうで、優しくて、自分の好みそのままだ。 だが、違うのだ、と思う。心のどこかでそうじゃないのだと声がする。 今、自分の頭を悩ませている人物は。この目の前の、自分の好みを体現したかのような女性とは程遠い。 …けれど。 「…全部」 「…え?」 「全部、当て嵌まるんだが、そういう場合はどうすればいいんだ?」 一緒に居ると楽しい。 笑っていて欲しいと思う。 そして、叶うのならずっと自分の隣に居て欲しい。 途方に暮れた様な声で問う玄冬に、女は軽く肩を竦めて見せる。 「どうすればいいんだって…そんなの」 呆れたように笑って。 「その人の事が好きなのに決まってるじゃないですか。」 |