玄冬に手を払いのけられた。
そんな事は初めてだった。


6、甘酸っぱいセンチメンタル(SideH)



玄冬はいつだって優しかった。

初めて会った時も、
何かの弾みで喧嘩して力を使ってしまった時も、
彩から一人で飛び出して、突然一緒に逃げようと言った時も。
自分の事を救世主だと解っていただろうに、普通の少年にするように手を差し伸べてくれて。
迎えに来て、何も聞かずに手当てをしてくれて。
決して手を払いのけようとはしなくって。
本当に、玄冬はいつだって優しくて、自分はその優しさにいつも救われていた。

なのに、何故突然?


『触らないでくれ』


そう言う玄冬の言葉を思い出して、花白は思わず唇をきつく噛んだ。

箱庭システムが機能していた頃、側にいてくれたのは、玄冬として殺されるためだったかもしれない。
だが箱庭システムが消滅した今は、玄冬として殺される必要もなく、その意味で側にいる必要はない。
それでも、あの時玄冬は「来いよ」と言ってくれた。
だから、玄冬も自分と一緒に居たいと思ってくれているのだろうと思っていた。
ただ、同情だったのだろうか、という不安な気持ちは常に付き纏っていた。
玄冬は優しいから、自分に行為を向けてくる人間を無下に出来ないのは解っている。
だからなのだろうか。今まで一緒に居てくれたのは。
だからなのだろうか。今になって手を払いのけられたのは。
全ての責任から解放され、自分はもう元気そうに見えるから。もう立ち直ったように見えるから。
だから、もう甘えるなと、そう言うことなのだろうか?
考えれば考えるほどに、辻褄があっていく気がして、瞳の奥が熱くなった。

不意に、扉の向こうから人の話し声が聞こえ、花白は咄嗟に目元を手で拭っていた。
扉の開く音がする。玄冬だと思った。だから、身を起して出迎えの準備をした。
…けれど。

「あら?顔が赤いですよ?お客様。熱でもあるのかしら?」

聞こえてきたのは、聞いた事のない女性の声。

「………あんた、俺で遊んでいるだろう?」

「いいえ?可愛いなと思ってるだけですよ?」

一瞬警戒したけれども、玄冬の声も聞こえたから、安堵して、寝台から降りた。
ふらつきながらも、扉の見える所まで来て、そのまま絶句した。

「……」

扉の前には、憮然とした顔の玄冬と、くすくすと笑いながら、玄冬の額に手を伸ばす金髪の女性。
触れている。自分と同じように手のひらを額に当てて、熱を量ろうとする仕草。
全く同じ事をしているのに。
------その手は振り払われることはなかった。

(そっか…)

何がそうかなのかは自分でもよく解らない。いや、解りたくないから言葉にしていないだけかもしれない。
だが、確かに、唐突に何かを理解した気分になる。

(僕が…)

「…玄冬。」

放っておけば、いつまでも押し問答をしていそうな二人に、花白は声をかけた。
玄冬が驚いたようにこちらを振り返る。

「花白。起きてたのか。」

「…うん。もう大分よくなったから。」

「そうか。」

ほっとしたように息を吐く玄冬はいつも通りだ。心配性で優しい玄冬。

「二日酔いだそうで、もう吐き気の方は治まりましたか?」

先程まで玄冬とじゃれあっていた女性が、一歩前に進み出て、花白に視線を合わせるように僅かに身を屈めた。

「…ええ、もう大分。」

それで解ったのだが、その女性は、長身の玄冬と並べば、普通の身長に見えるものの、実際には女性にしてはかなり身長が高いようだ。
何処かの雑誌で、モデルでもやっていそうな程のスタイルでもある。
そんなモデル並みの美貌の持ち主は、花白の言葉を聞くと、「よかったです」と笑った。
そして、懐から、小さな紙包みを取り出して、花白に渡す。

「いちおうお薬の方、置いていきますので、辛くなったら飲んでくださいね。」

優しい手付きに、優しい笑顔だった。
それでは失礼しますと言って退室する間際、不意にその女性が振り向いた。

「あ、それと。」

何処となく裏のありそうな笑みを向けて。

「こちらのお客様も、少々熱があるようですので、どうぞ優しくしてやってくださいね。」

「っ!あんたっ!」

「それでは、ごゆっくり。」

何故かは知らないが、珍しくうろたえている玄冬に軽く手を振ると、今度こそ女性は出て行った。
ゆっくりと扉が閉まっていく。玄冬はそれを目で追って、最後まで閉まるかを確認してから漸くこちらを向いた。
…確かに、心なしか顔が赤い。
何故かは知らないが、扉が閉まってから不自然な沈黙が流れた。
玄冬が、視線を合わせないせいだろう。そんなに、調子が悪いのか、と思う。
視線も合わない沈黙に耐え切れずに、花白は口を開いた。

「あの…その、玄冬もやっぱり体調悪かったんだ。熱があったんだね。ごめんね、それなのにつかっちゃって…」

「…熱はない。」

「でも、さっきの…」

「っ!あれはっ!」

「…あれは?」

「…………何でもない。」

何でもない。
自分にはそればっかりだ。
そんな風に思った途端、胸の奥が痛み、そこからどす黒い血が流れて、侵食されていくような気分に駆られた。

「…玄冬は、何してたの?」

「何って、見ての通りだ。薬を貰って来た。」

「それだけにしては、随分楽しそうだったね。」

「楽しいわけがあるか。遊ばれていたというのに。」

憮然としている玄冬。
でも。そう思う。そう思ってしまう。
あんなに、楽しそうだったではないか。自分の手は振り払ったのに。あの女性の手は振り払わなかったではないか。
黒い感情が広がっていく。
駄目だ。
これ以上言っては駄目だと理性では解っているはずなのに、それでも。

「へぇ?そうなんだ?あんなに美人で、触られるのを許す位に親しい関係の人と居たのに?」

「…花白?」

ここに来て漸く花白の様子がおかしいことに気付いたのだろう。玄冬が怪訝そうな顔をする。
だが、今はそれすらも、黒い感情を増徴させる糧にしかならなかった。

「体調悪いときに触るの、僕は駄目で、あの人ならいいんだ?」

「花白、何かお前誤解してないか?俺は」

「だって現にそうだったじゃない。」

なるべく、感情を抑えて言っているつもりだったのに、棘だって聞こえてしまう。
玄冬が驚いたように目を見開くのが見えて、咄嗟に俯く。
駄目だと思った。こんな事で苛立つだなんて本当にくだらない。
感情を制御しなくては。これ以上、言ってはいけない。
ここは冗談の一つでも言って、場を和ませるべきだ。
なけなしの理性に従って、口元を笑みの形にする。
何か言わなくては。
…何でもいい。何か。

「…君、もしかして僕のこと、嫌いになっちゃった?」

明るく冗談めかして言うつもりだったのに、口から漏れたのは余りにも切実な含みを持って掠れていて、驚いた。
そして悟る。この冗談は失敗だ。だってこれは冗談に見せかけた本気の問いだったから。

だって、自分はいい人間なんかではない。

そんな自分の側に、優しい玄冬が側にいてくれる理由を、自分に見出せない。
瞳の奥にじわりと熱が広がる。喉の奥が痛かった。

「それって、僕が、我侭だから?どうしようもなく子供だから?」

「花白、お前何言って」

「それとも僕が人殺しだから?」

「花白!」

険しい顔で名前を呼ばれて、一瞬身を竦めたものの、言葉が止まらない。
そして、必死で押し留めてきた涙も。

「じゃぁ何?ねぇ、言ってよ玄冬。言ってくれたら、直すから。…何でも、直すから。」

「…花白」

するりと頬を伝う感触で、初めて泣いている事に気付いた。
情けないと思った。男の癖に情けがない、と。
でもそれでも構わなかった。
自分にとっては今も昔も玄冬が全てなのだ。
親に捨てられ、育ての親にもまともに愛されず、人をたくさん殺した自分。
いくら救世主として崇め奉られていたとしても、自分がした事は許されることではない。
それでも、捨てられないたった一つの願いがある。

「…好きじゃなくてもいいんだ。こんな僕を好きで居て欲しいなんて、贅沢言わない。ただ…」

言葉に詰まる。それを口にすることの、自分の我侭さにあきれ返る。それでも。

「僕のこと、嫌わないで欲しいんだ…」

初めて自分を見てくれた人。初めて出来た友達。初めて好きだと思えた人。
だから。

「…僕は君と一緒に居たい…ずっと、友達で、いたいんだ。」

嗚咽を堪え、搾り出すように言った言葉。けれど反応はなく、
ただ、手のひらに爪あとが付くほどきつく手を握り締めていると。

「…友、達…」

「………え?」

ぽつり、と落とされた言葉。思わず花白は顔を上げた。
先程まで沈黙を守っていた玄冬と瞳が合い。

「俺たちは、友達か?」

そう、問われた。
一瞬何を言われたのか解らなかった。
見上げれば、何処か虚ろな瞳をした玄冬。感情の全く読めないその瞳。
瞬間起こるフラッシュバック。
懐かしい玄冬の家の中で、きっと出会ってから初めて『玄冬』と救世主の関係を話した時。
問うた。






『玄冬は』

『………うん?』

『玄冬は、僕のこと好き?』

『…………………何………?』

『僕は好きだよ。いい友達だもの。そして僕は友達思いなんだ』

『…………………』





『僕のこと好き?』
結局、自分は答えを貰えなかった。
あの時はそんなに気にしなかった。
けれど、今は。

「……っ!!」

「花白っ!!」

咄嗟に玄冬の横を擦り抜け、走り出していた。
背後から玄冬の呼び声が聞こえたが、無視して、宿から全速力で飛び出した。