8、越えたい、だけど変わりたくない(SideH)





「…っく…ひっく…っく…」

拭っても拭っても、流れ出す涙は後をたたない。
喉の奥が熱くて、噛み締めた唇から漏れ出す嗚咽も押さえきれない。
一体これ程の涙が何処にしまわれていたのだという位、次から次へと溢れ出してくる。
咄嗟に宿から飛び出した花白は、町の中を徘徊し、
昨日まではくじ引き会場であった広場に、たった一人立ち尽くしていた。
昨日までは楽しい思い出しか詰まっていなかったその場所で。


玄冬の言葉を思い出していた。



『俺たちは、友達か?』


問いかけるようなその口調。問いかけなければ解らないというような。

「…そんなの、友達じゃないじゃないか…」

突き崩されたような気がした。自分が今までずっと信じていたものを。今まで自分を支えていた足場を。
一歩通行だったのだ。自分の想いは。同情だったのだ。今まで一緒に居てくれたのは。
箱庭システムが崩れた今、玄冬は『玄冬』として救世主の側に居る必要はない。
そして、白梟のことで、精神バランスを崩していた自分も、もう元気そうに見えるから。もう立ち直ったように見えるから。
…だから。

あの女性を思い出していた。
まるで玄冬の好みを具現化したような容姿に優しい笑顔を。
そして、彼女と戯れていた時の玄冬の頬の赤さを。玄冬にしては珍しいあの狼狽ぶりを思い出していた。

だから。

玄冬は、自分の側からいなくなってしまうのだろうか?




「いや、だ…」



思わず口から漏れていた。

「そんなの、嫌だ…」

そう、嫌なのだ。
どれ程一方通行な思いだろうが、自分は玄冬の側にいたい。
初めて自分を見てくれた人。初めて出来た友達。初めて好きだと思えた人。
自分にとってとても特別な人だから。

…ならば、自分はどうすればいいのか。
花白は唇を引き結んだ。泣いてばかりでは駄目なのだ。だから、必死で考える。
救世主と『玄冬』という見えない鎖が断たれてなお、側にいるためにはどうすればいいのか。
必死で考えて、そして。

(そう、だ…)

ふと、気付く。
彼女との間を邪魔するでもなく、うっとおしがられるでもなく、寧ろ役に立つような。そんな立ち位置に立つことが出来れば。
我ながら名案だと思った。
そんな立ち位置。例えば、恋愛相談に乗るような。そういう立場を獲得すればいいのだ。
そうだ、それならば邪魔にはならない。嫌いになられる要素がない。それならば、側に居られるのではないか。
今回のことで解った。
玄冬の側にいるためには、今のままでは駄目なのだ。
超えなければ。
玄冬が今自分に抱いている感情を。自分が今玄冬に対して抱いている感情を。
時折、保護者のように世話を焼いてくれる優しい友達と、それに甘えてしまう自分という構図。
もう、それでは駄目だから。


本当は、変わりたくなかった。
今までの関係が余りにも心地が良かったから。変わりたくなどなかった。
玄冬と二人で何処までも、そんな夢物語を信じたままでいたかった。
だが、状況は変わったのだ。
自分が変わらなければ、もう玄冬の側にはいられない。



ふと、頬に冷たいものが触れて、反射的に空を見上げた。
垂れ込めた灰色の空。
そこから儚く美しい結晶が降り注いできていた。
彼と自分とを繋いでいたもの。
空から降る白いもの。

雪が。

降り出した。


自分の好きなもの。そして、自分と彼の名前にまつわるもの。
見惚れていると、突然、辺りの空気が変わった。
まるで、足元が揺れているような、空気が切り裂かれるような、
何処か感じた事のある妙な違和感。
かと思えば、突如目も眩むような光が辺りを包んだ。
この感じにも覚えがある。
光が拡散する。元ある景色が、空間が歪む。
そして、そこから現れたのは。

「…花白」

青みがかった黒髪に、蒼色の瞳の青年。

「………玄、冬…。」