足を滑らせて引っくり返るなんていう、馬鹿な真似した僕に、長身の男が心配そうに声をかけてきた。

「お前、大丈夫か?」

黒髪に、空色の瞳に、何だか強面をした青年。

「………怪我は、していないか?」

けれど、何処か優しい雰囲気は隠しようも無く滲み出ていた、君。

「………していないけど」

「………そうか」

(………ああ、そっか………これが、)

きっと。
-----君を見つけてしまったあの日に、僕の運命は根底から覆されてしまったのだと思う。







1.君を見つけてしまったあの日









「おい!花白!待て!」

「……」

背後から追いかけてくる声は完全に遮断して、花白は長い廊下を足早に歩いていた。
険しい声に、人々は何事かと振り返ったが、畏れ敬われている救世主と、若くして登りつめた第三兵団の隊長という顔ぶれに、
人々は好奇の心を改め、敬うように、頭を深く下げてくる。
慣れている事なのに、今は何だか無性に腹がたった。

「おい!!待てと言っている!!」

放っておけば何処までも大きくなっていきそうな怒声に、花白はいい加減うんざりして、立ち止まった。

「…なんだよ。うるさいな。」

「うるさいなとは何だ!」

立ち止まった瞬間に、顔を真っ赤にして、鼻息荒く近付いてくる銀朱に、わざとらしく溜息を落とした。

「はいはい、わかった、わかった。それで、用件は何?」

「貴様、今日のあの態度は何だ!!」

「態度?」

「そうだ。」

額に深い皺を刻み、窘める気満々のこの顔は何度見てもうんざりする。

「…別に、お前につべこべ言われるような態度をとった覚えはないけど。
陛下にも礼儀正しく対応したし、城の者にも丁寧に受け答えした。それに、玄冬討伐に、力を注ぐとも宣言した。
他に何を望むって言うんだよ。」

「その態度のことではない!」

本日こなした業務を丁寧に説明してやったのに、銀朱はまた声を上げる。
何だってこいつはいつだって暑苦しいのだろう。

「じゃぁ、何?まどろっこしいな。さっさと言ってよ。」

いい加減苛々してきて、次に何か言ってきたら適当に言いくるめて、さっさと部屋に帰ってしまおうと思った、瞬間。
銀朱は予想外の言葉を発した。

「貴様、今日殆ど物を口にしていないだろう?」

「……」

気付いていたのか。
銀朱の余計な事にばかり光る目に内心舌を巻く。
真っ直ぐに向けてくる視線が少し決まり悪くて、目をそらした。

「…別に、そうでもないよ。大体何でお前に一々食べる物の指図受けなきゃならないわけ?」

「俺はだな、折角民が救世主の誕生日の為にと寄付された金で用意された食物を全く口にしないというのはどうなのかと…」

「別にいいだろ。残った物は民に振舞われるんだから。」

「…それは…そう、だが……」

国民の幸福を誰よりも願っている隊長は言葉に詰まった。単純で、簡単な奴だ。

「ていうか、お前仮にも隊長なんだから、人の食べ方見てるなんていう、小姑みたいな真似やめたら?」

「なっ!小姑だと!?」

「用件はそれだけ?なら、僕は授業があるし、行くから。」

「おい、花白!!」

「隊長、あの」

しつこく追いかけて来ようとした銀朱を呼び止める声が背後で聞こえた。
国の為に、民の為に、陛下のためにと年中駆け回っている暑苦しい男だから、こういう事態は多々あることだ。
勿論、待つ気など更々なくて、さっさと歩き出す。

「この後のスケジュールのことで少しお話が…」

「〜っ解った。おい!花白!!まだ話は終わってないぞ!」

まだ背後から怒鳴り声が聞えたが、そんな物当然無視だ。
何事もなかったかのように、花白は自室へと向かった。
すれ違う人々人々が「おめでとうございます」と声をかけてくるので、笑顔で礼を返した。
自室前に置いてある花々には一瞥もくれず、部屋に入る。扉で外界から自分を遮断する。
それでも、先程の銀朱の大声が耳の底に張り付いていて、花白は小さく溜息を落とす。

「…全然、食欲が湧かないんだから、しょうがないじゃないか。」


『救世主』の誕生日のためにと、食卓に上った目も眩むばかりに豪勢な食事を思い出す。
遠方から取り寄せた珍しい食材であったり、普通に暮らしていれば手も届かないような高級食材を、
一流の料理人が持てる限りの力を駆使して作り上げたものたち。
…だが、それでも、全く食欲が湧かなかった。
理由は何となくは解っている。だが、解りたくもない。そんなつまらない理由だ。
ふと、部屋の中にも溢れている花々に目をやった。正確には花束の一つ一つに付いている、飾り立てられたプレートに、だ。
殆どが「救世主様」へと書かれている中、一つだけ「花白様」へと書かれているプレートが目に付いた。
心当たりは一人だけ。自分の名を書くのは、先程の馬鹿銀朱位だ。

「…違うよ、ばーか。」

花白は一人自嘲して、そのプレートを引き剥がした。
ついでに、ふと時計を見上げる。不本意ながら、あの馬鹿を思い出してしまったため、余分な事も思い出した。
授業の時間だ。
『救世主』の誕生日に、式典に出ないのならばと、代わりに詰められた授業だ。
出る気など更々なかった花白は、教官が部屋に呼びにくる前に部屋を飛び出した。
瞬間、冷気が頬を掠めた。同時に目に飛び込んできた色彩に目を見張る。
純粋で柔らかな、その色。
白、だ。

「…今日、寒かったもんな。」

そう言えば吐く息も白い。今更ながらに気付いて、大きく息を吐き、白く濁って消えていくのを見守った。
音も無く空から降り続く雪。まるで花のように。
雪は、好きだった。
世界を滅ぼす元凶だと、自らの運命を狂わせた原因だと、頭では理解していても。
それでも、綺麗だと、そう思うことは止められない。
時間を忘れて、その美しい光景を眺めていたが、不意に気付く。
回廊の向こうに人が居る。纏っている雰囲気で直ぐに誰だか判った。

「あれ、白梟………?………何でこんな時間にここに………何してるんだろ………」

白梟は何をするでもなく、ただ無心に雪を眺めている。

「…………………」

思い出しているのだろうか。あの日を。

「…………………チェッ、行こ」

「………花白?」

「……………!」

名前を呼ばれて思わず振り返る。





--------そして、その日、僕は君に出会ったんだ。