言わない言葉
 
 

「っ!くっそ!」
皮袋を投げ捨てると、バシャリと水の跳ねる音がした。
袋の口から溢れ出す、茶色身がかった液体。
それを見て、俺は唇をきつく噛んだ。
 
 
 
 
逃亡生活を始めて、もうどれ程が経ったのか。
もう数える気力も失っていたから量る術はないが、ただ我武者羅に進んできた。
魔光中毒で歩く事すらままならないクラウドを連れての逃亡は想像していたよりもずっと辛く、何度も挫けそうになった。
それでも、背中の重みを思い出しては自分を励まし進んで来た。
突然の追っ手、マテリアや武器の不足、温度の変化。普段なら殆ど困った事のないような事で様々な苦労を抱えている。
そして今目下の問題は食料だ。
保存食も水も、大して持ちはしない。それに新たに入手する事も難しい。
というのも、俺たちを捕まえようとあちらこちらで検問をして居るのだ。
もう水は殆ど腐りかけているし、保存食もほぼ底を尽きかけている。
せっかくここまで来たのにこのままでは…。
 
 
したくもない想像をして、思わず自分の頬を両手で叩いた。
続いて小さく溜息を吐く。絶望的な気分に浸っていた所で何も状況は変わりはしない。
それよりは、今の状況を把握し、新たに食料を探すべきだ。
自分を落ち着かせるように一度小さく深呼吸をすると、辺りを見回す。
見たところ、ここは住民から見捨てられてしまった町の跡のようだ。
何の理由かは推し量る術はないが、もしかしたら何処かに、井戸のようなものが残っているかもしれない。
そうやって辺りを窺っていると、不意に目の端に異様な光景が写った。
砂と石ばかりのこの土地に自然発生するには多すぎるはずの黒い虫が飛び交っている場所。
柱の影になっているから、一体何に群がっているのか、ここからは良く見ることはできない。
…だが。もしかしたら。一瞬希望が脳裏に浮かぶ。
砂と石だけの場所に虫が群がっている、そんなのありえない想定。
ならば予想されるのは水、もしくは食料の存在。
俺は思わずごくりと喉を鳴らして、その場所に近付いた。
 
 
 
柱の裏に辿り着いた俺は、落胆の色を隠せなかった。
砂と石ばかりのこの土地に自然発生するには多すぎるはずの黒い虫達、それ集っているのは、小さな人間の身体だった。
周りを飛び交う煩い蝿達は、時折子供の頬やら腕やらに着地し、もぞもぞと蠢いてから飛び立つと言う事を繰り返している。
だが決してその周囲から離れようとはしない。もう、その肉体が自分達の物になる事を知っているのだろう。
死体だ。それも大きさから見て、まだ幼い男の子。
ちらりと脇腹の辺りに目をやれば、深く抉れた3本の線。
その他に傷がない所を見ると、どうやらこの辺りに生息したモンスターにやられ、それが致命傷となったという所か。
俺は左手で前髪を掻き揚げると、小さく溜息を落とした。諦めて他の場所を見に行こうと背を向けようとした、瞬間。
 
「…かぁ、さん…?」
 
不意に聞こえる掠れ声。反射的に振り向けば、そこにはさっきまで閉じていた瞳がぽっかりと開いていた。
 
「…居るの?」
 
少年は、酷く澄んだ、けれどビー玉のように何も映してはいない瞳を空ろに見開いたまま、ぽつりと漏らした。
ヒューヒューと喉の奥から聞こえる、掠れた息遣い。
てっきり死んでいるとばかり思っていた俺は、驚きに目を見開く。
駆け寄って少年を見下ろせば、そっと腕を伸ばされた。俺の汚れた腕に僅かに触れる、指先。それはぞっとするほど冷たかった。
死が着々と近づいている。死神の影がはっきりとその背後に見える。
もう、助からない。それは俺が戦場を生きてきた中で培った勘だった。
少年は、指先が触れた事に気付いたのだろう。強張った頬をほんの少しだけ動かして。
「やくそく、通り、待ってた、よ…いい、子?ほめて…くれる?」
痩せ過ぎで窪んでしまったまん丸の瞳を、見えていないだろうに大きく見開いて、小さく首を傾げる。
俺は思わず胸を突かれて、男の子の腕を掴んでた。泥まみれで、腐敗の始まり始めているその手を、力強く握り返してやる。
「…あぁ、良い子だ。お前は、良い子だよ。」
殆ど感覚を失ってしまっているであろう男の子のために、出来るだけ耳に口を近づけてその言葉を注ぎ込んでやる。
少年はふわりと微笑んで、そのまま動かなくなった。ずるりと滑り落ちる少年の腕。死んだのだと解った。
涙は出なかった。
何故って、この少年はたった今出会ったばかりで、俺には全く関係のない人間で。
ほんの一言言葉を交わしただけの相手に過ぎないのだから。
そんな相手に一々涙を流しているようでは、ソルジャーなんて務まりゃしない。
いや、もうソルジャーではないのだが、それでも長年この精神に根付いた感情処理方はそう簡単には変わらない。
ただ、軽い同情心は微かにこの心に小波を起こしていた。
親に捨てられ、命を失った哀れな幼い命に憐憫を誘われるのは当然の事と言えるだろう。
けれど。
別段、この子の親が悪いとは思わなかった。
親は自分が生命の危機に瀕したから、子を置き去りにした。それは極自然な事だ。
親であるから必ずしも母性やらを持っている訳ではない。
どんな時でも自分を犠牲にして子供を守らなければいけない訳ではない。
それは実際に自然界を見れば解る事。
弱い個体に情けはかけない。自分の子であろうとも餌を与えず間引きする。
人間だって動物だ。
極限状態において、その規則が適応されたからといって驚くべき事などでは決してない。
責められる事では、決してない。責められる事であるはずがないのだ。
 
 
------そう、例え俺がクラウドを見捨てた所で、責められる訳ではない。
 
 
不意に、そんな考えが頭を過ぎった。
 
そんな考えは今までも心の何処かにはあったような気がする。
だが、目を瞑って決して見ない様にしていた言葉だった。
普通に考えて、クラウドを連れて、これ以上の逃亡は不可能だ。
ソルジャーである自分が、現在の状況や、身体の能力値、この辺りの地形、全てを総合的に考え合わせた上で、出した結論。
長年の経験の上に成り立つ論理から導き出したこの結論は、間違っているはずはないと自惚れではなく断言できる。
このままでは、捕まる事は時間の問題。火を見るより明らかな事。
クラウドをこの場に、この子供のように放置して、俺だけが新羅の追従から逃れる。
それが俺の命にとって最善策。誰の目から見ても妥当と言える、解決策。
 
 
不意に、子供の腰元に、最後のお情けのつもりだったのかくっついていた干し肉を見つけた。
この少年にはもう無用になった物だ。ならば有効活用させて貰おうとそれを剥ぎ取って、クラウドの元へ向かう。
 
 
クラウドは、先程と全く変わらない位置、変わらない体勢で俺の帰りを待っていた。
いや、待っていたというのは俺の希望的観測であって、別段クラウドにはそんなつもりがない事は解りきっている。
自分で動く事すら出来ないから、このままの体勢でここに居るだけだ。
きっと俺が帰って来たという事実すらこいつは気付いてなどいない。
魔光に頭をかき乱され、自分の中に深く沈みこんでしまっている。
それが魔光中毒なのだから。
 
-----投げ出してしまえばいい事なのだ。あの子供の親のように。
 
そう、この世はまだまだ広くって、女の子なんていくらでも居て、俺だってまだ23で。
何も、こんな魔光中毒で、治る見込みなんてまるでなし、しかも他の男に心を傾けている薄汚いガキなんて、
ここに放り出してしまえばいいんだ。
それが至って正常な思考。己の防衛機制に従った、正しい行動だ。
殺人だって?
そんなの全然怖くねぇ。一体俺が今まで何人殺してきたと思う?
年端もいかねぇガキから、何の力もないヨボヨボのじーさんまで殺してきた俺だ。
今更こんな薄汚いガキ一人殺した所で、何の変わりがあるっていうんだ。
それに、こう言う事態を緊急避難っていうんだ。
自分が助かるためには、人の命を最優先する必要はない。
罪に問われる事すらない。
 
それに、俺がこいつを見捨てていい要素はもう一つある。
俺とこいつは親友だ。
親友ならば、相手の足を引っ張りたくないと思うはず。
対等に肩を並べて立ちたいと、常にそう言っていたクラウドならば、意識があるならば必ずそう言うだろう。
実際自分がクラウドと同じ立場になったとしたならば、俺はやはり自分を置いていって欲しいと言うに違いない。
 
 
----ならば、放り出してしまえばいい。
 
 
気付けば、一人なら恐らく3日はもつであろう食料と水を握り締めて、
俺は歩を進めていた。
行き先は、先の見えない地平線。紛れて逃げやすい森林の中。
 
 
その、どちらでもなく。
 
 
 
 
 
 
 
 
「…う……あ…」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
限りなく、足手纏いな。今の自分にとっては、死神を招きかねない、あいつの元。
 
 
 
 
 
 
 
 
「…どうした?腹でも空いたか?」
 
 
 
 
 
何の意味もない、言葉を羅列するクラウドに、そっと微笑みかける。
微笑んでいても、眉を吊り上げていても、クラウドには見えていない。
見えているとしても、情報処理に結びついてなどいない。
それが解っていながらも微笑みかけてしまうのは、自分がそうしたいからだ。
どれだけ理屈を並べ立てた所で、俺はこいつを放り出せたりはしない。
常識だとか、正常だとか、そんなんどうでもいい。
ただ、俺がこいつを離したくねぇんだ。
 
口元に水筒を押し当ててやるが、クラウドはそれを喉に流し込む力も思考もないらしく、唇の端から、水が次から次へと漏れてしまう。
まるで、籠に水を注ぐように何の意味もなく地面に吸い込まれていく水に目をやって。
俺はクラウドの口元からそっと水筒を離すと、今度は俺がそれに口をつけて、水を含んだ。
飲み込むのではなく、ただ口に含む。そしてそのまま、クラウドの唇に自分の唇を重ねた。
顎を緩く掴んで、唇を僅かに開かせ、そっと水を注ぎ込んむ。
喉の奥に水分が流れ落ちるまではと、口を塞いだ。
 
 
乾いてかさかさになった唇は、皮が捲れあがっていて、俺の唇に痛々しさを伝えた。
それでも、初めて触れた唇に、胸が震えた。僅かに覚える罪悪感。
これはキスじゃない。
ただ、生命を生きながらせるためのカテーテルと同じだ。
…だから、許して欲しい。
例えこれを、俺がキスなのだと勝手に認識したとしても、許して欲しい。
ほんの一瞬、夢見る事を。
これはキスなのだと、ほんの僅かの間だけ夢見る事を、許して欲しい。
 
 
クラウドの喉が音を立てて上下する。
水分がクラウドの体に取り込まれた事を理解し、そっと唇を離した。
間近で見詰める水色。限りなく澄んだ空の色。
顎にかけていた手を伸ばし、クラウドの金糸に絡める。
前髪を掻き揚げ、親指の腹でそっと生え際を撫でてやる。
本当は、抱いてしまいたい。
キスをして、抱きしめて、その身を貫いて、俺という存在を刻み込んでしまいたい。
考えた事がない訳ない。どんな声で鳴くのかだとか、どんな顔してイクのだろうとか。
 
でも、出来ない。
馬鹿だと思うよ、自分でも。
ソルジャーになって最初に学んだのは感情を排斥する技術であったはずなのに。
それでも離せない。離したくない。
一緒に居たい。誰を想っていても構わない。だからせめて俺の傍に。
 
 
 
不意に、クラウドが何かを言おうとする気配を見せた。
そんな事は滅多になかったので、驚いて、聞き逃すまいとそっと口元に耳を近づけた。
その形の良い唇が刻んだのは。
 
 
「セフィ……ス…」
 
しっかりと発音出来ていた訳ではない。それでも、はっきりとその声は聞き取れた。
こんな時でも。
こんな時でも、クラウドの口を吐いて出る名前は、あいつの物だけだ。
 
胸が痛かった。どうしようもなく。
それでも。
 
 
「…大丈夫。ちゃんと、居る。」
 
 
 
そう言って、笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
……サァ-------------------
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雨が降っている。
初めに認識できたのはそれだけだった。
気付けば、俺が仰いでいるのは、灰色の味気のない空。
さっきから雫が絶えず頬に打ち付けているのに、何も感じない。
触覚も、冷覚も、痛覚でさえも、何も感じなかった。
 
駄目だった。
 
それだけが俺の脳裏を過ぎる。
けれどそれには意外性などなく、やはりなという思いの方が強かった。
クラウドという、自分で身動き一つ取れない人間を抱えた果てしない逃亡劇。
一人前にソルジャーなった人間であれば誰もが俺の行為を嘲笑うに違いない。
ソルジャーになって一番初めに習うのは感情を排斥する技術ではなかったのかと。
だが、それでも、離せなかった。どうしても、離す事が出来なかったのだ。
 
ただ見開いているだけの瞳に、青が映った。
この大振りの中で唯一の空。
限りなく澄んだ瞳の色。
自分が守り通したこの世で唯一無二の宝物。
クラウド
その名を呼んで、微笑もうとして、出来ない事に気付いた。
もう、そんな力さえ残されていないらしい。
それでも、伝えたい事が、ある。
どうしても伝えたい事があるんだ。
 
 
 
好きだと
そう、言いたい。
 
 
何度も何度も言いかけて、その度に押し留めてきたその言葉。
けれど、もう駄目だから。もう自分が駄目だって事がはっきりと感じられるから。
死に行く者から生きる者へたった一言。
そんな最後の一言くらいなら、許されるんじゃないだろうか?
そう思って、口を開いた
瞬間。
 
 
「……ス…」
 
 
クラウドの、声が聞こえた。
思わず出かかった言葉を飲み込んでしまう。
今、何て言った…?
今、何て…。
 
 
「…ザックス!!」
 
 
 
俺の名前を呼ぶ声だった。
 
たったそれだけ。
たったそれだけの事で、涙が出そうになった。
 
魔光中毒で、身も心もボロボロで、まるでブリキ細工の玩具みたいだったクラウド。
全く意味を成す言葉をなど喋れるはずがない程中枢神経がやられてるにも関わらず、
それでもセフィロスの名前だけは忘れなかったクラウド。
 
そんなお前が、自分を取り戻した瞬間。
…俺を、呼んでくれるのか?
 
 
「ザックス!死ぬな!お願いだから…死ぬなっ!!」
 
 
ぼろぼろぼろぼろ空色の瞳から、次々と零れ落ちてくる、暖かい雫。
 
 
 
 
 
 
ふ、と口元が緩んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
開きかけていた唇を閉じる。
先程まで言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もう、いいと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
知っていて貰えなくとも、もういいと。
クラウドの瞳から際限なく零れ落ちる涙。
死ぬなと、生きていてくれと縋るその腕。
他の誰でもなく、俺を呼んでくれるその声。
それだけあればもう十分だと思った。
 
 
 
 
 
 
何て報われない。
何て愚かなと人は言うだろうか?
 
でも、俺はそうは思わない。
一人の人間を愛した。心の底から全力で。この身の全てをかけて。
何の見返りもいらなくて、自分よりも大切で、見苦しい位に切ない。
その感情を。
人が一生をかけても得られるかどうかさえ判らないその感情を。
全力で、たった一人のために注げた。
 
 
それだけで、いいのではないだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
好きだから。
本当にもうどうしようもなく好きだから、この想いは告げず俺は逝く。
この想いは誰にも知らせず、墓まで持っていくから。
だから。
お前は幸せになってくれ。
 
 
 
誰よりも、そう願っている。
 
 
 
こんなにも満ち足りた死があってもいいのかと思うほどに
俺は満ち足りたまま瞳を閉じた。
 
 




 
暗っ!
…えー申し訳ありません。無茶苦茶暗いです。管理人これ以上暗い話は書けないんじゃないかと思う位暗いです。
何しろ書いてる最中頭痛やら吐き気やらがしましたから(死)
そして、多分今まで書いた中で一番時間がかかったお話でした。
…つーか、余りにも報われなさ過ぎるので、もし機会があったら何らかのフォロー話を書こうかと思います。

余りにも暗い、相変わらず片思いの似合うザックス君の、セフィクラ話第2弾、
お付き合い下さって本当にありがとうございました。(深深)