09.隣に
嫌な予感はしていた。
柄の悪そうな二人組みが、前方から廊下の幅一杯に広がってこちらに向かってきた時から嫌な予感はしていたのだ。
クラウドは資料を小脇に一杯抱えており、両手とも塞がっていたし、周りに人は居ない。
一般兵ながらも、階級が一つ上がりたてであるクラウドは出来れば面倒事は避けたかった。
問題を起こせば折角手にしたチャンスも失いかねない。
だが、今更来た道を引き返すのもおかしいし、小道に逸れようにもその小道が無い。
仕方なくクラウドは、視線を出来るだけ合わせないようにして、ただ前だけを見て歩き続けた。
密かに身体を緊張し、神経を張りながら、横を通り過ぎようとした瞬間。
「ソルジャー様に同情で付き合って貰ってる奴は出世が早くていいよなぁ」
そう、吐き捨てられた。
反射的に振り向きそうになったが、ぐっと堪える。
ただのやっかみだ。相手にする価値も無い。別段気にする事ではない。
本当によくある事で、今までだって何度も言われて、聞き流してきた事だ。
だがそれでも。
『同情』
その言葉が胸に鋭く突き刺さった。
奴らはザックスを知らないし、自分達の関係を知っているわけではない。
…それでも。
何気ない事なのだ。本当によくある事。普段なら全く気にも掛からない事。
それが突然精神の琴線に触れることがある。
何故そんな事が起こったのか。それは心理学など何の専門知識のないクラウドにもぼんやりとは解っている。
心の内にひっそりと降り積もっていたもの。見ないように、気にしないようにと蓋をして、
必死に目を逸らしてきたものが、許容量を超えてしまった。
恐らくそれだけの事だ。
ただ、それが解っている所でその感情を処理するのに役立つ訳ではない。
決壊したダムから溢れ出したものを止める気力は、もうなかった。
「ただいまー。」
陽気な声が玄関から聞こえる。それは、ちょうど一杯に詰め込んだトートバックに蓋をした瞬間だった。
もう、準備は整っている。クラウドは揺らぐ事のない己の気持ちを確かめて、トートバッグを肩に掛けた。
元よりそっけのないクラウドの性質を熟知している男は、気にした素振りも見せず、
鼻歌なんぞを歌いながら勢いよくクラウドのいるリビングに入ってきた。
「ただいま、クラウド」
入って来た同居人、ザックスはもう一度そう言って、全開の笑顔を向けてくる。クラウドは小さく頷くだけで、やはり返事はしなかった。
使い古したトートバッグを肩にかけるクラウドにザックスは何の不信感も抱いていないらしい。
帰ってくるなりダイニングに向かい、冷蔵庫を開けて、缶ビールをを取り出している。
プルトップを持ち上げる音、ゴクリ、とうまそうに喉を鳴らす音、「やっぱり仕事の後はビールだよな」などという呑気な声音。
全てが全て生活の一部で、耳どころか身体に、心に馴染みきった音だ。
ほんの少し胸が痛んだ。だが、決心を変える気は更々ない。元より、この程度で代わる決意ならば、ここまで思い悩んだりはしない。
「…なぁ、クラウド」
カラン、と、一気に飲み干した缶が机の上に置かれる音と共に、呼びかけられた。
「玄関に貼ってあった予定表、何ではずしちまったの?」
突然振られた話題に、一瞬心臓が飛び跳ねた。核心の部分をそんな形で問われるとは思っていなかったからだ。
「トレーニングの計画とかも書いてあったし、ないと不便じゃねぇのか?また貼っとけよ。」
咄嗟に答えられなくて沈黙を守っていても、ザックスは不審がる素振りも見せない。ただ小さく笑う。
「…っていうか俺が貼っといて欲しいんだけどな。あれないとお前の休暇予定がわかんねぇから寂しいし。」
最後の方は少し笑いを含んだ調子で言われたが、眇められた瞳は柔らかすぎて、情が湧いてしまいそうで怖かった。
だから。
ばっさりと、何の感情も込めず、抑揚の無い声で、言い切った。
「…………は?」
ザックスの笑顔が一瞬で凍りついた。先程の柔らかな笑顔とのギャップが少し辛くて、瞳を逸らす。
クラウドの言葉を情報として処理しているのがありありと解る間。その後。
「ちょ、おま、待て、クラウド、何言ってんだよ。何か怒ってるのか?
いや、そりゃ俺デリカシーないし、怒らせるような事したかもしれないけど、何も、出ていくなんて…」
困惑したように、宥めるように、しどろもどろになって言葉を言い募るザックス。その言い分も当然だ。
昨日までは極普通に生活し、笑い合い、触れ合い、からかいあいをしていたのだから。
余りにも突然で、突拍子も無くて、何の脈絡も無い発想に、混乱されるだろう事は解っていた。
でもそれでも。
「……嫌なんだ…」
「…え…?」
「もう…、嫌なんだ…」
「クラ…?」
怪訝そうに名前を呼びかけるザックスに、これ以上言い募る気にもなくて、トートバッグをしっかり抱え直し、ザックスの横を素通りした。
…いや、正確には素通りしようとした所を、手首を思い切り掴まれる事で引き止められていた。
「ちょ、待てよ!何が何だかわかんねぇよ!ちゃんと説明しろよ!!」
持ち手とは逆の腕を掴まれたものの、勢いの余り、トートバッグが肩から勢いよく滑り落ち、どさりと鈍い音がした。
クラウドは唇を引き結んだまま、斜め下に視線をやり、決してザックスと視線を合わそうとはしなかった。
だが、それでもザックスは腕を放そうとはしない。クラウドの言葉を辛抱強く待っている。
重い沈黙。時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえた。
どれ位の時間が流れたのか。
まるで我慢比べのようなその時間は酷く長いようにも感じたが、実際はそれ程経っていないのかもしれない。
どちらにせよ重苦しく密度の濃い時間だった。
次第に沈黙と、頬に感じる痛いほどの視線に耐え切れなくなってくる。
「…あんたってさ、ソルジャーで、格好良くて、何でも出来て、本当に、誰でも選べるよな。」
突然の話の転換に、ザックスは驚いたようだ。当たり前だ。自分でもこの脈絡のなさについていけていないのだ。
ただ、感情から流れ出るままに、言葉を紡いでいるだけなのだから。
だが、そんな事など知るはずも無いザックスは、思い当たる事を探そうとでもしているのか、一瞬考え込むような素振りを見せる。
そして、不意に慌てたように手を目の前で大きく振った。
「あ、もしかしてさっき喋ってた受付の女の子の事言ってるのか?誤解するなよ、あれはただ…」
どうやら今日は受付嬢と長話をしたらしい。それは自分が知りもしない事実だったが、勝手にそれを理由だと思い込んでザックスは弁解している。
そんな意味の無い言い訳をこれ以上聞いている余裕は、今のクラウドにはない。
「…あんたが俺を選んだのは、ただ自分より劣る存在を近くに置いて、優越感を味わいたかったからだけなんじゃないのか?」
自分でも、鋭いと感じる声音で一気にそれだけ吐き捨てると、掴まれていた手首を勢いよく払いのけた。
呆気に取られた様子のザックスにさっさと背を向け、一杯になったトートバッグを拾い上げると、もう一度肩に担ぎ直し、玄関に足を向ける。
「…なっ!おい、クラウド!」
玄関までの短い廊下を半分程まで行った所で、漸く我を取り戻したらしいザックスが後ろから追いかけてきた。
「いきなり何言い出すんだよ!お前、冗談にしても言っていい事と悪い事が…」
背後から聞こえるザックスの話など聞く気もなかったクラウドは、歩調を速める。
「ちょ、待てよ!聞けってば!!」
廊下を渡りきり、玄関まで辿り着いた所でもう一度腕を掴まれる。今回の力は先程の力の比ではなかった。
小さく呻くクラウドを無視して、肩を爪が食い込むほどきつく掴んで、振り向かされた。
「待てって!ちゃんと聞けよ!!」
荒げられた声は、視線と同じで肌に突き刺さって来そうなほど鋭い。それでも頑なに目を合わさなかった。
「…聞きたくない。」
「っ聞けよ!クラウド、俺はなっ!」
「聞きたくないっ!!」
張り上げた声は頭の中で反響し、頭痛がした。
必死で抑えてきた感情が一気に噴出し、喉の奥から言葉を突き出す。
「解ってる!言われなくても解ってる!!あんたはそんな奴じゃないんだっ!」
瞳の奥が熱くて、どうしようもなくて、気付けば感情の奔流は雫となって流れ落ちていた。
ザックスが息を呑んだのが解った。掛ける言葉も見つからないのか、黙り込む。
息が荒い。こめかみが熱い。流れ出す涙が止まらない。
溢れ出す感情もまた、止まらない。
「…だからだよ……」
搾り出したのは掠れ声だったが、沈黙が支配していた室内にはやけに大きく響く。
「だから、惨めになる…。解ってるんだ。あんたはそんな奴じゃない。
なのに、俺が勝手に卑屈になって、信じられなくなって、こんな事言って…。
…そんな自分が、どうしようもなく惨めになるんだ。嫌気がする。
自分が悪いのにあんたに八つ当たりする自分がどうしようもなく嫌になる…。」
クラウドは唇をきつく噛んだ。そうでなければ、嗚咽が漏れてしまいそうで怖かった。
『ソルジャー様に同情で付き合って貰ってる奴は…』
解っている。解っていた。ザックスはそんな人間じゃない。
明るくて、優しくて、大らかで、分け隔てが無くて。自分とはかけ離れた出来すぎた人間だ。
自分みたいにこんな些細な事で卑屈になったりはしないし、その必要もない。
優越感のために自分と付き合うだなんて、そんな発想天地が逆様になったって、出て来はしないだろう。
それでも自分は、考えてしまう。
(ホントウニ?)
ザックスが同情で付き合っているのではないと本当に言えるのか?、と。
ザックスが悪いのではない。悪いのは全て自分だ。自分の多大な劣等感。勝手で卑屈な想いのせいだ。
そしてその度陥る自己嫌悪。
信じきれない自分に苛立ち、戸惑い、悲嘆に暮れる。
まるで裏切ってしまったような想いに駆られる。けれどどうしようもない。
「クラ…」
「……苦しいんだ…」
宥めるように何か言おうとするザックスを遮った。
「…あんたの事が、好きなのに…ちゃんと、好きなのに…憎まなきゃいけないのが、苦しいんだ……」
気付けば一気に腹の底に潜めていた言葉を吐き出していた。
ずっと思っていたこと。思っていても言えなかったこと。
自分は時折、ザックスを憎んでいたのだ。
認めたくない。見たくない。目を逸らしていたいその事実。
何でも出来て、誰からも慕われていて、
自分が持っていない、持ち得ない物を容易く手にしているザックス。
目を逸らしていたいのに。
例えば、朝起きる時間が違う時。例えば、一緒に乗ったエレベーターで違う階で降りる時。
例えば、ソルジャーの遠征の情報を新羅ニュースで見ている時。
ザックスが悪いのではない。悪いのは全て自分だ。
側に居れば居るほど、自分との差を思い知って。
考えれば考えるほど、ザックスが自分の側に居てくれる理由が解らなって。
特別何かがあった訳ではない。大事件も、酷い喧嘩も、多大な勘違いも何もありはしない。
ただ、何気ない事なのだ。本当によくある事。普段なら全く気にも掛からない事。
それが気付けば心の内にひっそりと降り積もっていた。
まるで明け方の雪のように、音も立てず、気配も感じさせないくらいにひっそりと、ただ確実に。
見ないように、気にしないようにと蓋をして、必死に目を逸らしてきた。
それが、唐突に許容量を超えてしまった。
…ただ、それだけのこと。
だがそれはもう取り返しがつかない。
「…もう、疲れた……」
「………」
「もう、疲れたんだ…」
流れ出す涙が止まらない。喉の奥が熱くて、噛み締めた唇から漏れ出す嗚咽も押さえきれない。
一体これ程の涙が何処にしまわれていたのだという位、次から次へと溢れ出してくる。
時計の音と、噛み殺しきれなかった嗚咽だけが響く空間。
そこは今朝までは笑顔で挨拶を交わし、軽愚痴を叩きあい、一緒にトーストを齧った空間だった。
過去と今との決定的な差異に、もう戻れないのだと、改めて痛感させられる。
ただ、カウンターに置かれたアナログ時計だけが変わらず時を刻む声を告げていた。
「………もう、決めたことなのか…?」
不意に聞こえたその声は、不思議な位に抑揚が無かった。
クラウドは、口にする代わりに小さく首を縦に動かした。
「もう…変われないのか…?」
もう一度、頷いた。瞳を見る勇気はなかった。
「俺は……」
ポツリと、ザックスが言葉を落とした。
ただその先は続くことなく、空気中に拡散して完全に消えてしまう。
代わりに紡がれた言葉は。
「…俺じゃあ…、お前を幸せには、出来ないのか……?」
ザックスの声は、酷く掠れていた。
聞いた事がない程辛そうなその声音に、そしてその言葉に、胸が痛んだ。
一緒に居て、幸せでなかったか
そう問われれば答えは否だ。
ザックスの隣は、居心地が良かった。
くだらない話をして、笑って、一緒にご飯を食べて、眠って、時には腕を絡ませて抱き合って。
初めて食事がおいしいということを知った。
初めて人の温もりが心地よいということを知った。
初めて、生きる事が楽しいと思った。
ーーーそれでも、もう、側に居るのが苦しい。
それ程もう、疲れていた。
…今は辛くとも、きっといつかはお互い別れてよかったと思うときがきっと来る。
お互い笑って話せる日がきっと来るだろう。
自分はきっともう一生人をこんなにも好きになる事はないだろう。
けれど、ザックスはきっともっと相応しい相手を見つけて幸せになれる。
こんな卑屈で、素直じゃなくて、役立たずなんかではなくて、
もっと優しくて、素直で、包み込めるような強さを持った人に。
だから。
もう一度首を縦に振り下ろした。フローリングの床が自棄に歪んで見えた。
それから幾分かの間があって。
「…そっか…」
ザックスは、呟いた。その言葉で全てにけりがついた事が解った。
突然、まるで先程までの憂いが嘘のようにザックスは明るい声を出した。
顔を上げると、少しだけ決まり悪そうに、だがさっぱりとした笑顔を見せた。
元々さっぱりとした気性の奴だ。気持ちの切り替えも早い。もう完全に割り切っているようだった。
身勝手ながらも空虚な思いと喪失感が胸を吹き抜ける。
だが、そして同じ位の安堵の思いも抱えながらクラウドは口を開いた。
「俺の方こそ、ごめん。こんな自分勝手な奴、早く忘れて、新しい奴、作れよ。あんたなら、簡単だ。」
「…お前な、普通そういう事言うか?最後位可愛い事の一つや二つ言えよ。」
「だって何だか目覚め悪いだろ。」
「最後の最後までお前らしいな。ま、努力はする。」
ザックスは明るく笑った。
努力などしなくとも、ザックスならば簡単に次が出来るだろう。
今まで自分が独占してきたザックスの腕だとか、あの柔らかな笑顔だとか、優しい指先だとか。
それら全てが他の人の物になってしまうのは、今はまだとても胸が苦しく感じるけれど。
想い出は時が全てを風化してくれると知っているから。
泣く資格が自分にあるはずはなかった。
ただ肩に掛けたトートバッグの持ち手を握る手に思わず力を込めてしまい、勢い余って爪が掌に食い込んだ。
玄関は自動ドアになっている。
外側からはカードキーを通さなければ開かないが、内側からはボタン一つで開く仕組みになっていた。
カードキーを玄関の靴箱の上にそっと置く。
もう使う事のない、手にする事すらないであろうそのカードキーは妙に余所余所しく見えた。
開錠ボタンに手を伸ばす。音も無く横にスライドする扉。部屋の外に踏み出す。
「クラウド」
出掛けに呼び止められ、振り向いた。扉の向こうで微笑んでいるザックスと目が合う。
「ごめん、」
一瞬何を言われたのか解らなかった。先程の続きなのかという錯覚は次の言葉で霧散する。
「好きだ。…多分、ずっと、好きだ。」
扉の外に立ち尽くすクラウドを、自動扉は、容赦なく部屋から閉め出した。
鼻先で閉まった扉の向こうに消えた笑顔は、透明で。
そして、何処か満ち足りて、悲しそうな微笑だった。
全身の力が抜けた。
その場に立っていられなくて、膝から崩れ落ちる。
床に座り込んだまま、ただ呆然と閉まった扉を見詰めた。
謝罪の意味。微笑の意味。そして、告白の意味。
それら全てが身体に、心に、精神に。まるで雨のように降りかかって、染み込んでどうしようもなくなる。
優しい過去に、過去となってしまった想いに絡め取られて、動けなくなる。
ごめん、と。ずっと、好きだと。ずっと好きでいてくれると。
先回りした謝罪で示された、不変の愛情。
ただ好きでいさせて欲しいと。それだけで満たされるほどに、お前が好きだと。
「………俺も……」
側に居れば居るほど、話せば話すほど、考えれば考えるほど、苦しくなる。
卑屈な自分に嫌気がする。
けれど。
「………、好き、なのに……」
ポツリと零れ落ちる本音。
好きなのに。
何故、こんなにも好きなのに、側には居られないのか。
何故、好きになる事と、側に居られる事は違うのか。
…何故、縮こまるのではなく、卑屈に見上げるのでもなく
背筋を伸ばして、視線を合わせて、隣に居られるような人間にはなれないのか。
乾きかけていた涙が溢れ出して頬を伝う。
無い物を数え上げる事しか出来ない自分が、もうどうしようもなく悲しかった。
これを書いた時の私は相当病んでました(笑)
でも、この劣等感っていう議題って、すっごくザックラらしいものだと思うので、一度とことん突き詰めて書いてみたかったのです。
そして、突き詰めた結果、私が病んでたせいか、別れてしまいました(死)
でも、付き合ってて疲れる相手と一緒にいるのっていうのは物凄く苦痛だと思うのです。
とんでもなく暗いお話ですいませんでした。
ちなみにpreciouse time とは別物です。