Act4 Is it likeness?



感情に名前をつけるのは難しい。
例えそれが、自分のものだとしても。





神の塔は、厚い壁に囲まれている。
石灰岩でつくられたというその壁は丸い塔の周りを一周し、様々な者の侵攻を拒むような作りになっていた。
つまり、塔とその壁には、狭くはない隙間があると言う事。特に塔の裏側には。
そして、その塔の裏側には、小さな扉がついていた。
木製の頑丈な扉で、外から見ると取っ手とか鍵穴というものは存在しない。
だが、内側には精巧な細工の鍵が取り付けられており、表の巨大で贅を凝らした扉とは対照的に、
木でできた扉は、鍵さえあればいとも簡単に開く。元々王の脱出路として作られたものなため、当たり前と言えば当たり前なのだが。
脱出用と銘打っているだけあり、王が脱出するような緊急事態など生じなければその扉は開かれない。
だから、その扉は長年開かれていない。だが、その事実は対外的に過ぎない、と知る者もいる。
 
神の塔の裏手に続く扉が、軋んだ音を立て、ゆっくりと開いた。
 
中から顔を覗かせるのは、青い瞳、黒髪の端正な顔立ちな男。
ザックスだった。
ザックスは木の扉から、顔を出し、油断なく目を走らせ、辺りを窺った。
「…ザックス。」
虫の囁く様な小さな声が聞こえる。
「ザックス」
辺りを見回すと、もう一度声が聞こえた。
先程よりは少し大きめの声。
声のした方に目をやると、一人の男が立っていた。
「レジック。」
ザックスがその男に向かって軽く手を上げ、神の塔から出ると、木製の扉を音もなく閉まった。
笑みを浮かべてやると、向こうも手を上げて笑った。
レジックと呼ばれた男は、走り寄って来る。
男は赤茶けたぼさぼさの茶髪に、グレーの瞳をしており、年の程は50代半ばと見える。
男は、親しげにグレーの瞳を細めた。
「久しぶりだな。最後に会ったのは一ヶ月前だったか?」
「あぁ。俺のこの端正な顔立ちを拝ませてやれなくてすまなかったな。何せ俺も王子だからな。さすがに怪しまれるとまずい。」
「端正な顔どうこうはどうでもいいけどな。」
「ひでぇなぁ。」
ザックスは苦笑したが、元より冗談のつもりだから本気でショックなど受けてはいない。
小さな冗談で場を和ませた後、すぐに鋭い視線を向ける。
「で?どうだ。計画の方は。」
「予定通りだ。」
「ていうと…」
「あぁ、拳銃が6丁。手榴弾が10。それに、磁波を狂わせる装置も完成間近だ。」
ザックスはにっと唇の端を吊り上げた。
「そりゃいい。本気で準備は予定通り進行してるって事だな。」
「あぁ。ザックスのおかげだ。王をつるし上げる日も近いぜ。」
レジックは、屈託なく笑った。
 
 
 
ザックスが今会っている不穏な台詞を吐く男、レジックは身分としては土民に当たる。
だが、彼は戸籍的にはもう死んだ事になっていた。
昔、王に散々働かされ、酷い扱いを受けた後、怪我の治癒もされぬまま放置されていた所をザックスが助けた。
戸籍的に既に死亡の欄に書かれるだけあって、レジックの怪我は酷かったが、
医術にも興味を持っていたザックスが医者の真似事をして助けたのだった。
戸籍が抹消された場合、生きている事が解られなければ、もう土民としての生活に戻る必要はない。
王とか、神だとかに関わらず、ひっそりと生きていく、そんな道を選ぶこともできたはずなのに、この男は敢えて修羅の道を選んだ。
王の仕打ちによって、女房子供を無くしたこの男には当然の選択とも言えたのかもしれない。
そういう訳で、王への恨みつらみは腐るほどあるこの男は反乱組織を結成したという訳だ。
見つかれば、即惨殺という運命が待っているため、派手な募集はできないにも関わらず、この組織にはそれなりの人数が集まっていた。
レジックのように戸籍を抹消された土民、今も日々こき使われ続ける事に疑問を感じている土民、
階級性に疑問を感じている間民など構成メンバーは様々だが、皆階級性に対する個人的不満と辛い過去を持つ者だ。
ザックスも例に漏れず、そのような理由でこの組織に加担している。
レジックが作らなければ、王子という身分故動きが取りにくいにも関わらず、
自分で組織しただろうという自覚があるだけにこの男の存在はザックスにとって有難かった。
 
 
 
 
「それで『穢れ』の話なんだけどさ。」
武器製造の話や、その日の打ち合わせなどが一段落ついた所で、ザックスは話を切り出した。
レジックが計画表に落としていた顔を上げる。
「あぁ、『穢れ』か。力がどんなものか解ったのか?前は計画には利用できないかもしれないと言っていたが…」
レジックの瞳がギラリと光った。
そう、ザックスは初め『穢れ』の能力を利用するつもりで居た。
『穢れ』の能力が攻撃性のものであれば、神の塔の破壊工作に加わってもらえるし、攻撃性でないにしても、
何らか補助になってくれれば助かる。何しろ、土民でありながら神の塔に無条件でいられる貴重な人材なのだから。
利用とは言っても、『穢れ』だって自由を得られる訳だし、お互いの利益が一致する。
決して悪い話ではないと言うわけだ。
そう思ってクラウドに近づいた。そのはずだった。それなのに。聞いていなかった事に今更ながら気付く。
「…いや、わかんねぇ。でも、俺はそいつが大した能力持ってなくても逃がしてやりたいって思ってる。」
レジックが驚いたように目を丸くする。まぁ、予想の範疇だ。
「完璧なセキュリティーシステムに守られていると聞いたが。果たしてそんな事が可能なのか?」
ザックス達の計画を考えると、レジックの質問も最もだ。
ザックス達は、権威の象徴である神の塔を、作成した手榴弾で王と共に吹っ飛ばすつもりでいる。
できうる限り被害は留めるつもりだが、『神』の何人かの犠牲はやむをえないと見ている。
そんな状況だったから、深いセキュリティーに守られたたった一人の青年を助けにいく余裕があるとも思われない。
だがそれでも。
「それでも、何とかする。」
「…そこまでする価値がそいつにはあるのか?」
躊躇なく言い切るザックスに、レジックはちらりと視線を向けた。
暗に、計画遂行のためには多少の犠牲もやむをえないのではという考えが窺える。
確かに、計画の安定性と、セキュリティーを掻い潜るリスクを考えたら、たった一人くらいの犠牲はやむを得ないと考えるのが普通だろう。
でも。それでも。
「…そいつさ、生きてる意味も解ってねぇんだよ。」
脳裏に、無表情だった青年が甦る。
言葉を発した時以外に全く動かず、まるで能面のような顔をしたクラウド。
会話をしに来たザックスに、本題に入れといきなり服を脱ぎ捨てたクラウド。
抱かれる位しか、自分には価値がないと本気で言ったクラウド。
だから。
「せっかく生れ落ちたのに、何も楽しい事しらないなんて駄目だ。
狭いトコ押し込められて、酷い事されてさ、それを当たり前のことだと思ってるなんて駄目だ。
苦労したんならその分もっと幸せになるべきだって。そう思うんだ。」
だから、出してやりたい。
出して、本当の自由と言う物を教えてやりたい。幸せってものを知って貰いたい。
ただそれは個人的な我侭だ。
返事を待つ、気まずい時間が流れる。レジックは黙っていた。組織のリーダーとして、判断がつきかねているのだろう。
酷い事を要求している事は解っている。それでも譲れない。どうしても。
不意に、レジックが息を吐く音が聞こえた。
「…お前は甘いな。」
口調は厳しい。それでも、レジックは仕方ないとでもいうように微笑んだ。
結局この男も、甘い。組織のリーダーでありながら、どこか甘さを捨てきれない。そんな所が好きだった。
「…解った。だが、そいつの事は全てお前が責任を持てよ。」
「あぁ、解ってる」
ザックスはにっと笑った。
 
 
 
 
 
軍資金を渡し、レジックと別れた。出てきたときと同じように音を立てないよう、神の塔に入り、鍵をかけた。
ほっと胸を撫で下ろす。
構成人数、武器、諸々の手順。全てが今のところ順調だ。
何年も、何年も、細心の注意を払って進めてきた計画が形になってくるのに、思わず震えが走った。
恐怖ではない。不安のためでも、後悔のためでもなかった。
何と表現したらいいのかは解らない。けれど、敢えて言葉にするのなら歓喜というのが一番近いだろうか。
やっと、だ。あの日から18年経った今。
やっと、果たせる。その実感に、一瞬眩暈がするほどの銘酒感に満たされた。
生きてきた中で、最も歓喜に、興奮に満ちた瞬間。
この瞬間、想わなければならない人は決まっていた。
18年前のあの時から決まっていたはず。それなのに、浮かんできたのはクラウドの顔だった。
クラウドが初めて微笑んだあの瞬間。
クラウドに会いたかった。会って、レジック達と立てた計画の事を話したかった。
お前は自由になれるのだと、そう叫んでやりたかった。
…それに。
そっと上着のポケットに手を入れた。指先に、その感触を感じる。
今日は珍しい物を手に入れた。前々からレジックに頼んでいたものだが、それをクラウドに見せようと思っているのだった。
今日は話したいことが一杯ある。きっと2時間じゃ足りない。
でも、その分は明日話せばいい。
驚くだろうか?喜んでくれるだろうか?
…笑って、くれるだろうか?
ふっと口元が緩んだ。
計画も順調。クラウドの友達化計画も頗る順調。
順風満帆。何もかもがうまくいきそうだ。その時はそんな気がしていた。
 
 
 
 
ロンがいない。
いつも煩いくらいに付きまとわれて、鬱陶しい位に小言を言うロンが、今日は見つからなかった。
時々こういう事はあった。だが、これまで特別気にした事はなく、組織の連中に会えてむしろラッキーてな位にしか考えていなかった。
でも、こんな時はちょっと不便だ。
口の横に手を添えて、大きく息を吸った。
「おーーい!ロン!育毛剤の値段教えてやるから出て来いよー!」
いつもならこんな事を言われれば、羞恥と興奮のために耳を真っ赤にして出てくるはず。
何処で、何をしていても。その位彼の脱毛の傷は深いのだ。
だが、返事なし。もう一度叫んだが、やはり返事はなかった。
ロンが行きそうな所を暫し考える。
階級性に、盲目的に付き従っているロンは神の塔から外には出たがらないから外という事はありえない。
けれど、ロンの部屋にも、ザックスの部屋にも、王の広間にもいる気配がない。
だとすれば、あと行く可能性が残されているのは。
「…まさか、あそこか?」
まさかとは思う。だがそれ以外に考えられない。
クラウドの収容されている部屋。
ロンが進んで行く場所とは考えられないが、他に探していない所といえばそこしか思いつかない。
 
 
 
 
 
果たしてロンはそこにいた。
扉に背を預けていたが、ザックスを目にすると何だか決まり悪そうな顔をする。
「お前、こんなトコにいたのか。すげー探したんだぜ?育毛剤の値段教えてやろうと思ってたのに。」
「…はぁ…そうですか…。」
ロンはそう言って目を伏せた。
おや、と思った。いつもなら食いついてくる話題のはずが、何だかロンは他の事に気を取られているようだ。
視線も決して合わせようとせず、指先を落ち着きなく動かしている。
不思議には思ったが、今はロンの育毛剤食いつき度に興味を持っている場合じゃない。
上着のポケットの中の物をぎゅっと握り締める。とにかくクラウドに会いたかった。
「ま、いーや。ここに居てくれて好都合だ。開けてくれ。」
ロンはちらりと視線を上げると、すぐに逸らし、
「…できません。」
と口の中で、もごもごと言った。
「…あん?」
思わず声を上げた。驚いた。耳を疑った。今まで渋る事はあったものの、一度もできないとは言わなかったロンだ。
絶対的な階級性に何の疑問も感じず、従順に付き従っている彼が、何故。
言葉にはせずとも空気で十分過ぎるほど伝わったのか、ロンは言いにくそうに言葉を続ける。
「我がご主人の命に逆らうのは心苦しいですが、今日はザックス様よりもご身分の高いお方の指令なので、
お通しする事はできないのです。どうかご理解下さい。」
「…は?」
「ですから…」
ロンは困ったように頬を掻いた。
「今日は王がお目見えになられるのですよ。」
(…王が…?)
言葉に詰まった。
王がクラウドの元を尋ねる。『神』の中でも最大の権力を持つ男が、最も身分が低いとされる『穢れ』の元へ。
何の用かなんて、そんなの考えるまでもない。
あの、王が穢れとおしゃべりだの、お茶だのしにわざわざここまで足を運ぶ事なんてありえない。
あるとすれば、それは。
 
体がかっと熱を持った。
 
ザックスは気付けばロンの胸倉を掴み上げていた。
「ザ、ザックス様!?」
恐怖の色を浮かべるロンを睨みつける。
「開けろ。」
「し、しかし、王のお目見えまであと15分足らずしか…。」
一度開けてしまえばパスワードは変更になる。
つまり、王を迎えるまでにもう一度メインコンピューターまで行って番号を確認しなければならないと言う事だ。
そんな時間はないに等しい。それでも。
「いいから開けろ。」
殺しかねないザックスの迫力に気付いたのだろう。ロンは首を何度も縦に振った。
胸倉を離すと、ロンは慌ててオートロックに走り寄って行った。
ピーという機械音と共に扉が音もなく開く。
途端視界に広がる空色。
 
 
「ザックス!!?」
 
 
いつものように部屋の中心にいるクラウドが勢い良く立ち上がった。
あんぐりと口を開けているクラウドはTシャツにジーンズという、いつもの格好ではなかった。
桜色のドレスに、胸元には白いコサージュ。そのドレスと釣り合うようにか、
ぼさぼさだったプラチナブロンドには、櫛が通され、綺麗に結い上げられている。
そして唇にはほんのりと紅が乗せられ、形の良い唇が余計に際立っていた。
思う存分飾り立てられているクラウドは綺麗だった。本当に息を呑むほどに綺麗だった。
(王にお目見えする晴れ衣装って訳か…)
ぎり、と唇を噛んだ。
どうせ引き裂く衣装に金をかけ、どうせ流れ落ちる化粧にクラウドの時間を奪ったのか。
体が更に熱を帯びた。
許せない、と思った。
クラウドの体に触れるなんて許せない。
望んでもいないのに、体を開き、好き勝手蹂躙するなんて許せない。
そんな事をさせるくらいならいっそ。
そう、いっそ。
王をこの手で殺してやりたいと思った。
クラウドは不慣れなドレスに蹴躓きそうになりながらも走り寄って来た。
信じられないとでも言うようにザックスを見上げる。
「ザックス…何で…?今日は…」
「知ってる」
驚いたような顔をするクラウドには答えず、ベルトにささった剣に軽く手をかける。馴染みきったアーミーナイフ。
確かめるように軽く握った。
「離れてろ。」
抜き身の刃にクラウドが息を呑むのが解った。
「あんた、何、する気だ?」
恐る恐る問うクラウドにちらりと視線を向ける。
「俺が、何とかする。」
「お前、何言ってんだ。王子が王に逆らえる訳ないだろ」
「それでも、何とかする。」
そうだ、
完全に頭に血が上っていた。
翻る意思もないザックスをクラウドは呆然と見ていたが、見る見るうちに眉を吊り上げた。
 
「いい加減にしろ!!」
 
怒鳴られ、思い切り睨みつけられた。久しく見ていない、鋭い視線だった。
クラウドの握り締められた拳は怒りにだろう。細かく打ち震えている。
「王子が王を何とかするとか、そんな事、そんなできるはずもない事言うな。
それで、俺が空喜びすれば満足か?自分はこんなに人の事考えてる、
自分はこんだけ努力したんだって見せ付ければ満足なのか?
…いい子ぶんのも大概にしろ!!」
「……クラ、ウド?」
何を言われているのか一瞬解らなかった。
ナイフを掴んでいた腕から力が抜け、だらしなく垂れ下がる。
クラウドの瞳は2度目に会った時と同じ類の炎を宿していた。
激しい怒りに、空色がぎらぎらと輝いている。
「もうたくさんだ。お偉い様の同情も憐れみも。もうたくさんだって言ってんだよ!!そんな芝居見せ付けんな!!」
口調と同じ激しさでナイフを叩き落される。落ちたナイフが、床に当たり乾いた音を立てた。
それを目で追って、のろのろと視線を上げる。
「…クラ…」
その時、丁度ロンの声が聞こえた。
「ザックス様!!お早く!流石にもう無理です!!」
酷く切羽詰った声だった。もう、本当にタイムリミットギリギリなのだろう。
クラウドはロンの方にちらりと目をやるとすぐにザックスに視線を戻し、更に眉を吊り上げた。
「出てけよ。」
背中を押される。突き刺さる冷たい視線。
途端湧き上がるのは、どうしようもない焦燥感。
何か、何か言わなくてはいけない。そう解っているのに。
言いたい事が多すぎて、言わなくてはならない事が多すぎて言葉にならない。
喉の奥まで込み上げて、けれど決して言葉にならない。それでも無理矢理口を押し広げて。
「俺は…」
「出てけ、ってば!!」
聞くつもりもないクラウドに、思い切り背を押され、部屋から追い出された。
あっという間に目の前で扉が閉まり、クラウドを掴もうと伸ばした腕は虚空を掴む。
まるでつかみ取った虚空が胸に居座ってしまったかのように心が一瞬で冷えた。
隣に居ない。その事実にどうしようもない空虚感が広がる。
次いで沸き起こったのは、空虚とはかけ離れた感情。
「……っくそ!!」
完全オートロックの扉を力一杯殴った。
ガンと鈍い音がするが、扉はびくともしない。唇をきつく噛む。
殺してやるのに。
嫌だと、お前が一言そう言えば、あんな父親など、八つ裂きにしてやるのに。
いや、お前がそう言わなくとも、お前が望まぬ相手に手を出されるとしたなら、そいつを何の躊躇もなく殺してやるのに。
扉の向こうで何が行われるかと想像すると、胸が妬き付いてたまらなかった。苛立って苛立って、頭がおかしくなりそうだった。
ガン!!
もう一度扉を殴りつけると、ロンが慌てて駆け寄ってきた。
「それ以上はおやめ下さい!!傷が広がります!!」
必死に腕に取りすがってくる。
「おい!お前らも早くザックス様を押さえろ!!」
振りほどこうとして、ふと、何か違和感を感じた。
(傷が、広がる…?)
伸ばした腕をゆっくりと上げ、顔の高さまで持ちあげる。
拳には血が滲んでいた。扉の金具を殴りつけてしまったのか、拳の皮膚がぱっくりと裂けている。
相当の深手らしく、出血が止まらない。
傷に一瞬気を取られた隙に、ロンに呼ばれた者達に押さえ込まれ、近くの部屋に放り込まれた。
有無を言わせぬ強い力だった。ガンと床に叩きつけられて頭を打つ。
痛くなかった。でも。
一の腕から、肘にかけて赤い線が伝うその腕を見て、初めて痛みを覚えた。
今の今まで気付かなかった。痛覚なんてそんなもの全く感じなかったのに。
傷口から脈の拍動を感じる。それほどの深手。それなのに。
何故、気付かなかった?
何故これ程の痛みを覚えなかったのか?
何故?
 
 
そんなの解りきった事だ。
 
クラウドの事で頭が一杯だったから。
他に感覚を回す余裕もない位、全神経は彼に向けられていたからに決まってる。
『お偉い様の同情も憐れみも、もうたくさんだ』
クラウドの台詞に苛立った。どうしようもなく苛立った。
そうとしか見て貰えなかったのか。自分の気持ちは、行動は、クラウドからすればそうとしか感じて貰えなかったのか。
あいつは何も知らないんだ。あいつは俺の気持ちを何も知らない。
だからそんな事が言えるんだ。
(俺は…)
 
ふと生じる疑問。
(…俺は…?)
 
 
己の感情のその先。そんな物がある事に自分で驚く。
(俺は…何だっていうんだ…?)
そうだ。
大体クラウドに近づいた理由だって、初めは些細な反抗心や、自分の信念に従うためとはいえ、
同情や哀れみと言った感情がなかったとどうして言えるのか。
それらが全くなかったなどとどうして言う事ができるのか。
言う事などできない。できるはずなどない。
何故なら、それらは確かに存在した。僅かではあってもそこに確かに存在したのだから。
では、何故こんなにも苛立つのか?
真実を言い当てられたから?
違う。そうじゃない。そうじゃ、ない。
そんな簡単な事じゃない。
そもそもこの気持ちは本当に同情なのか?
憐憫なのか?そんな気持ちなのか?
だったらこの気持ちは何なのだ。
腹の底から湧き上がってくる怒りと、どうしようもない焦燥感は。
こんなにも側にいたいと思うこの感情は?こんなにも離れたくないと思うこの感情は?
こんなにも、あの男が憎らしいと思うこの感情は?
同情、哀れみ。
本当にそれだけで片付けられるような感情なのか?
本当に、それだけなのか?
 
 
 
…そうだ。
もし、クラウドへの気持ちが同情であったとしたならばあの時生まれた感情は何なのか。
クラウドが、蹂躙されてしまう位なら、王だって殺してやりたいと、そう思った気持ちは一体何なのか。
守ってやりたい。
自分の全てを犠牲にしても。
そんな気持ち。
これは。

「……っ…」

その瞬間。初めて気付いた。
傍にいたい。守ってやりたい。傷つける者は誰であろうと許せない。
自分が彼に抱いている感情。
こんな狂気とも言える激情。
この感情の名は。
力が抜けて、ずるずるとしゃがみ込み、膝をついた。
口元を手で覆った。
そうだ。
一度解ってしまえば、それを裏付ける感情が次から次へと浮上してくる。
友情だとクラウドに言い聞かせたくせに、自分にしかその笑顔を見せたくないと思ったことはなかったか?
独占したいと、そう考えた事がないと言えるか?
その細い手首を、掴んだ瞬間、体が熱く疼いた事がないと、本当に言えるか?
本当に、言えるのか?
男など好きになった事はない。
男をどうこうする趣味などない。
でもそれでもクラウドに対して生じた感情はそれ以外に名前をつけられない。
そうでなければあの時生じた感情の理由がつかない。
『出てけよ。』
そう言ったクラウド。
それでも。
あの時自分は。
渡したくない。抱きしめてこのまま掠って行きたい、と。
そう、思ったんだ。