Act 5    a  reason  for  life
 
 
 
きっと生きてきた世界が狭かった。
価値観の相違なんて、簡単に乗り越えられるものだと思っていた。
 
 
 
 
 
 
あの日から、ザックスは暫くクラウドの元に赴く事をしなかった。
理由は、計画進行を早めるため殺人的なスケジュールをこなし、行く余裕がなかった、と言うものだった。
早く解放してやりたい。その思いばかりが強く、ザックスは食事さえ忘れるほどに日々奔走していた。
会いたいと思わない日は一日だってなく、ふとした瞬間クラウドの笑顔が思い出されて、どうにもたまらなくなる。
毎日通い詰めていた時には気付かなかった殊更強く意識した事のなかった気持ち。
早くその顔を見て、その声を聞いて、その瞳を見て、他愛のない話をしたかった。
…ただ、忙しいとは言えども全く時間がない訳ではないわけで。ほんの少し、クラウドの元を訪れる時間ならば作ろうと思えばあった。
それでも行かなかったのは、やはり逃げていたのもあるのかもしれない。
あの日から、王は二日に一回はクラウドの元に通っているとの話はロンから聞いていた。
二日に一回。情事の痕も消える間もない短時間。
だからだった。
ザックスには、王に抱かれた跡の残るクラウド見て、冷静でいられる自信がなかったのだ。
情事の痕を見た後、また王と会うクラウドを指を銜えて見ているだなんて、そんな器用な芸当が自分にできるとは思えない。
自分がクラウドに惚れていると自覚する前でさえ、ああだったのだ。
自覚してしまった今ではどのような暴挙に出るのか。
恐らく直ぐにでも、全てを台無しにしてしまいそうな気がした。
必死に勉強し、何年も何年も、気が遠くなるくらいに待って、仲間を集めて計画したあの作戦さえも無碍にし、
単身王の元に乗り込んで、ナイフで刺し殺そうだなんて無謀な真似さえするかもしれない。
そんな事では駄目だ。それでは犬死だ。
犬死したのでは意味がない。それではクラウドは救えない。そして自分の願いも叶わない。
だから、駆けつけたい衝動を堪えながら日々を過ごし、結局、ザックスがクラウドの元を訪れたのはあの日から1週間ほど経ってからの事だった。
 
 
 
 
 
 
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扉の前に立ち、柄にもなく緊張した。
王のお目見えは、昨日で打ち切りだと聞いた。
飽きたのか、他に興味が遷ったのかはしらないが、ザックスにとって重要なのはそこではない。
重要なのは、もう暫く王はクラウドの元に来ないという事だ。
それならば、ザックスは例えクラウドにどれだけ情事の痕が残っていようとも、何とか理性を制御できるような気がした。
今日やっとクラウドに会える。
会いたくて、会いたくて仕方がなかったその人に、今日やっと会えると思うと胸が震え、高ぶる感情の波を制御するのに時間がかかった。
大きく息を吸い、瞳を閉じる。そして気合を入れるように息を吐いた。
ロンが解除キーを押すと音もなく開く扉。
いつものように部屋の中心で膝を抱えているクラウドに、いつものように声を掛けようとして、そのまま、動きを止めた。
声も、出なかった。
立ち尽くすザックスの気配に気付いたのか、クラウドはゆっくりと顔をこちらに向けた。
ザックスの姿を認め、ぼんやりとこちらを見ている。その、姿。
「お前…」
思わず眉根を寄せてしまった。
クラウドは、いつものように半袖のシャツとGパンを身につけていたが、衣服に包まれるその身体は普通とは言いがたい。
白い肌には、赤黒い痣がいくつも残っており、しかもその痣は首筋に集中している。
裾から覗く細く白い腕には何かで打ち据えたような痣があり、手首に至ってはくっきりと縄の跡が残っている。
また、唇の端が切れており、瞼は泣きはらした跡のように腫れていた。
何故こうなったかなど、聞くまでもない。こんな状態になるのは行為を強制された時だけだ。しかも手酷く。
ただ、こんな事は日常茶飯事であったであろう事は大体予想はついていた。
土民でさえ、そう変わらない扱いを受けているのだ。
生れ落ちた瞬間から『穢れ』として扱われてきた者など、それより酷くて然るべきとも言える。
ただ、最近はそんな事をザックスがさせなかったから、ここまでの様相は初めて会った時以来だ。
させなかったとは言っても特別な事をしている訳ではない。
ザックスが毎日通っている、それだけでクラウドはザックスのお気に入りであると公言することになり、
ザックスより身分の低い者は勿論、同等の身分の者も滅多な事はできなくなる。
こんな時には役立つ王子という身分を利用して今までクラウドを守ってきた。
己の不在の折にも、ザックスのお気に入りである事は公然の事実だったから、滅多な事はできないはず。
ただ、その無言の圧力が効果をなさない人物もいる。王子であるザックスよりも身分の高い唯一の人物。
その唯一の人間の暴挙に、ザックスはぎり、と唇を噛んだ。胸が妬きついてたまらなかった。
本当は、今すぐ単身王の元に乗り込んで王の喉元に向かってナイフを振るってやりたかった。
でも、それよりも先にしなければならない事は、痛々しげなクラウドに言葉をかけることだ。
それをするのは今ではない。今実行すれば犬死する事は解っている。
今はとにかく。
ザックスは言葉を選ぶように口を動かした。
大丈夫かと言いかけたのだが大丈夫なはずがないと思い直し、掛けるべき言葉が見つからなくなった。
自分は何のかんのと言って、幼い時から男らしい様相をしていたから、男に犯された事なんてない。
だから、暴行された者の気持ちなど解らなかった。
どう言えばその傷が癒えるのか、どうすればその自尊心を取り戻せるのか。
言うべき言葉が見つからない。
言葉が、みつからなかった。
 
「何て顔してんだよ。」
 
今まで、ただぼぅっとザックスを見たままだったクラウドが、苦笑した気配が伝わってくる。
「改めて俺の身分理解して、軽蔑した?」
向けられるのは、何もかもを諦めているような、そんな自虐的な笑みだった。
「っ!そんなんじゃない!」
反射的に叫んで。そして何を言おうか迷った挙句。
「…辛かった、だろ?」
などという月並みな言葉しか返せなかった。クラウドは緩慢に首を振る。
「…別に。いつもの事だし。王よりもっとサディスティックな奴もよく来たから、慣れてる。」
淡々と言ってのけるクラウドが逆に悲しかった。
痛みになど、慣れるはずがない。慣れたと思っていてもそれは錯覚だ。
本当は、自分で切ってしまった感情の向こう側で確実に傷はついている。身体にも、心にも。
またしても掛ける言葉を失って、立ち尽くしていると、クラウドはもう一度苦笑した。
「…なぁ、あんたさ、もう、来なくていいよ。」
「……え?」
「あんたと居ると、楽しかったけど…俺同情されるのとか、好きじゃない。」
「クラウド…?」
「あんたさ、俺を構う事によって、罪悪感を打ち消したいだけなんだろ?もしくは優越感を味わいたいのかな。
俺は『神』になんてなった事ないから、どっちか判んないけど。」
「おい、クラウド。」
「でも俺さ、自分で自分の事可哀想だなんて、思ったこと、一度だってないから。
だから、そういう偽善事業のネタにされたくない。」
「クラウド!!」
淡々と、全く感情の篭らない声で言うクラウドに、思わず声を上げていた。
クラウドは一瞬だけ視線を向けたが、直ぐにふいと顔を逸らしてしまった。それでも続ける。
「お前、それ前も言ってたよな。どうしたんだよいきなり。どうしたらそんな風に思考が結び付けられるんだ?
俺は同情とか哀れみとかでお前と付き合ってるんじゃない。
俺が一度だってそんな事言ったか?ここに来るのが面倒臭そうな時が一度でもあったか?」
「…ないよ。一度だってない。」
「じゃぁ…」
「それだけ、あんたの演技が完璧って事だろ?もしくは自分に酔いすぎてるのかしんないけど。」
「ちょっと待てよ。」
変わらず視線を逸らしたまま、無感情な声で言うクラウドの肩を掴んだ。途端に勢いよく振り払われる。
「クラウド」
「だって…」
クラウドは漸くこちらを向いた。
「だってあんたはあの日以来来なかったじゃないか。今まで一度だって欠かした事なかったのに、あんたは来なかった。
それは、俺があの日図星をついたから、だろ?演技で俺を騙そうとして、いい目を見せてやろうと思ったのに、追い出したから。
だから、怒ってたんだろ?だから、来なかったんだろ?」
淡々とした言葉に無感情とも言える抑揚。ただ、その向こうに、悲しそうな、泣きそうな顔をしたクラウドが見えた気がして。
どうしようもなく胸を突かれた。
頭をガンと殴られたような、そんな衝撃が走る。
まさか自身の不在がそんな形でクラウドの心を蝕んでいるだなんて思いもしなかったから。
「違う。違うんだクラウド。」
言いながらどうしようもない自己嫌悪に駆られた。と同時に耐えようもない焦燥感がこの胸の奥を支配する。
「違うんだ、クラウド。俺が暫く来れなかったのは、そんな理由からじゃない。お前を解放するためだ。」
「……解放?」
俯いていたクラウドが緩慢な動作で顔を上げる。ザックスは力強く頷いて、クラウドを真っ直ぐ見詰めた。
「…話、聞いてくれるか?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ザックスの話を聞き終わると、クラウドは呆然とザックスの顔を見詰めた。信じられないというような瞳で。
「逃げ、る?ここ、から…?」
独り言のように呟くクラウドに、ザックスは力強く頷いた。
「そうだ。逃げていいんだ。お前はこんな所にいなくてもいい。自由に生きられるんだ。」
一言一言、力強く言葉を紡ぐ。
黙ってクラウドの反応を待った。今はまだ話されてばかりで事情が飲み込めていないのだろう。
ザックスの顔をまるで、魂が抜けたかのように呆然と見てくるクラウド。
けれど、事情が飲み込めてくるに従って、返ってくる反応を待ちわびていた。
その眉間に寄せた皺が晴れ、顰められた眉が穏やかな弧を描き、その唇が笑みの形を刻むのを、ただ待った。
漸くクラウドが顔を上げる。
けれど、その顔に表れた表情は、全く持って予想の範疇を超えていた。
クラウドは悲しそうに、微笑んでいた。
「…せっかくだけど遠慮するよ。」
その表情と同じく、返ってきた言葉は全くもって予想だにしない言葉だった。
「…え?」
一瞬本当に何を言われたのか解らなかった。
「俺は行けない。」
予想していたどの言葉とも全く異なり、ザックスは思わずその肩を掴んだ。
「っ何言ってんだ!?助かるんだぞ!?自由になれるんだ!!もうこんな目に合わずに済むんだぞ!!」
物凄い勢いで捲くし立てるザックスに、クラウドはそっと目を伏せる。そのまま沈黙した。
長い沈黙の末、クラウドは小さく溜息を吐いて顔を上げる。
「…お前もさ、聞いてるだろ?俺が『穢れ』って事。」
クラウドはぽつりとそんな事を漏らした。相槌を打つのも忘れてクラウドの声に耳を傾ける。
「『穢れ』は、俺が生まれ落ちた瞬間から持っていて、死ぬまでずっと続くんだ。逆に言えば死ねば『穢れ』が清められるってこと。
ただそれには生前の行いが影響するけどな」
「…何、言ってんだ。」
クラウドは大きく伸びをすると立ち上がった。そのまま空色の天井を仰いで。
「…死んだらさ、最後に、空の向こうに居る『神』の父が裁くんだって。その方が生前の行いを見て、どうするか決めるんだ。
罪深い者は、酷い輪廻に投げ込まれ、罪なき者は素晴らしい輪廻に迎えられるって具合にな。それはお前も知ってるだろ?
で、俺の場合はさ、前世に罪深い行いをした『穢れ』だから初めから罪深い存在なんだ。
だから、神の言う事に逆らえない。従わなくちゃいけない。そうする事で罪を償わなくちゃいけないから。」
クラウドの瞳はひどく遠くを見詰めていた。ここではない何処か、遠くを。
「でもな、ちゃんとそうやって生きてれば『穢れ』は消える。この肉塊に宿った『穢れ』が消えれば漸くその罪が償われるんだ。
消えて漸く通常の輪廻に戻してもらえる。…やっと人間になれる資格が貰えるんだ。…だから、裁かれなくちゃいけないんだよ。」
「っお前だって今でも人間だ!!」
ザックスの言葉にクラウドは一瞬きょとんとしたが、すぐに首を振った。
「俺はただの肉塊だよ。死ぬ事が生まれてきた理由なんだ。」
笑みすら浮かべてクラウドは言ってみせる。何馬鹿な事を言っているんだというように。
当たり前だろと、まるで子供を諭すように。自分の言葉に何の疑いも持っていない。
ぞっとする程澄んだ瞳は、クラウドの一分の隙もない信仰を思わせた。
「だから行けないよ」
と屈託なく笑ってみせる。
一生死ぬまでこの立場を甘んじると、何でもない事のように言ってみせる。
確かにこのシェルター内ではそんな宗教がまかり通っている。
それが身分制を崩す障壁になっているのも事実だ。だが、もう時代は変わりつつある。
人々の考え方も徐々に変化し、身分制度に疑問も出始めている。
実際に、そんな人々が反乱組織を結成したのだから。
だから、クラウドにだって、その思考は可能なはずなのだ。そう、可能なはず。
自らに言い聞かせるようにして、己の唇を湿らせた。
そしてゆっくりと口を開く。
「お前は、どうしたいんだ?」
「…え?」
クラウドの驚いたような顔。
「神とかそんなんどうでもいい。お前は、どうしたいんだ。」
返事を待った。真っ直ぐにその瞳をみつめながら。
クラウドは不思議そうな顔をして、ザックスを見詰めて居たが、一瞬だけ考えるような素振りを見せた後、言葉を紡いだ。
「俺が」
期待で一瞬心臓が飛び跳ねる。
…だが。
 
「俺が自分で決めていいことなんて何一つないよ。」
 
口を開いたクラウドは、何の揺らぎもなく言い切った。
眩暈がした。全身の力が抜けて、クラウドの肩にかけていた手が滑り落ちた。
何故。
何故、と思う。
目の前には可能性が広がっているのに。手の届く距離にその甘美な果実は用意されているのに。
それ程、自由を与えられてこなかったのか。それ程人間として扱われなかったのか。
目の前に与えられた選択肢を選ぶ権利さえ、放棄せざるを得ないほどに。
それを享受出来ないほどに、クラウドの絶望は深いのか。
切ない気持ちに駆られる。やりきれない気持ちで胸が詰まりそうになった。
「頼むから…」
やっと振り絞った声は、ひどく掠れていた。
「頼むから、そんなこと言わないでくれ…。」
悲しかった。
ただ、悲しかった。
クラウドが不思議そうに眉根を寄せるのが瞳の端に映って余計悲しくなる。
「頼む、から…」
唇を痛いくらいに噛んだ。
ザックスが何故こんなにも辛そうなのかクラウドは全くわかっていないようだった。
ただ驚いたように目を丸くして、どうしたんだと聞いてくる。
クラウドには解らないのだ。人間が人間らしく生きるという当たり前の事が。
それが、どうしようもなく悲しかった。