Act6 Nobody can't stop





外の世界から内部に、毒が流入した。
その話を聞いたのは、早朝の授業を受け持っている、文官からだった。
ただ、昔から度々そのような事はあったため、別段驚く事ではなかった。
「ヒューマンプランテーション」は、設立されてから、気の遠くなるような時間が経っている。そういったガタが来た所で、おかしくはない。

「今、急遽土民達を修復にやらせているらしいですが…それにしても心配ですね。」

「…何がだ?」

『心配』。その言葉が、修復に向かっている土民達に向けられている訳ではない事は解りきっている。
文官のような者達にとって、土民は使い捨ての道具でしかないからだ。
ならば、何に対しての心配なのか。
自分の話題に食いついてきてくれた事が、嬉しいのだろう。
文官は、少し嬉しそうに、口の横に手を当て、内緒話の口調で言った。

「それがですね、毒が流入したのは、城の裏側なんだそうですよ。」

瞬間、血の気が引いた。
城の裏側には、レジック達の基地があるのだ。
レジック達の基地は、城の裏側の地下に設置されている。
地下に毒が流入してしまえば、逃げ場がない。中にいる人間達も一溜まりもないだろう。
背中を冷たい汗が伝う。心臓が、異常な程脈打って、頭痛がした。

「ザックス様?どうなされました。お顔色が…」

ぎょっとした様子で顔を覗きこんでくる文官を手で制して、大丈夫だという意を伝える。
大事にされたくはない。病気だと判断されれば、身動きが取りにくくなる。
早く、レジック達に連絡を取らなければ。焦燥感に煽られて、ポケットの携帯に手を伸ばした瞬間、携帯が振動した。
1回、2回、3回。ちょうど3回のコールで切れる。レジックとの連絡の約束事だ。
組織は全滅したわけではない。その事実に、ザックスは安堵を覚えた。
だが、一刻も早く、連絡を取った方がいいのは事実だろう。
ふいと顔を上げると、やはり、文官は心配そうにザックスを窺っている。

「本当に大丈夫ですか?ここの所お仕事が多いようでしたし、睡眠をとられていないのでは…。」

提案された不調の理由に、ザックスは内心ほくそ笑んだ。

「…ああ、確かに、ここんとこ書類の提出続きで、あんま寝てねーな。悪い。今日は、ちょっと帰って部屋で寝るわ。」

そう言って、大きな欠伸をしてやると、文官は神妙に頷いた。
素直な文官で助かった。明日の早朝の授業を受け持つ文官ではそうはいかなかったはずだ。
ザックスは、出来うる限り、眠そうな足取りで、扉から出た。
そして、出た瞬間携帯を取り出す。
ディスプレイに表示される、「メール受信」の文字。
ボタン操作でメールを表示すると、現れたのは数字と記号のみを組み合わせた暗号だ。

『第二基地ニテ待ツ』

そう、書かれていた。





**





「レジック!大丈夫か!?」

第二基地。
即ち、この塔の横の時計台で、レジック達は待っていた。
時計台は、1年に一度整備士が入る位で、普段は殆ど人が来ない。
そのため、緊急避難用の基地としてザックスがレジック達に鍵を渡していたのだった。

「あぁ、俺は何とか逃げおおせた。ただ、まともにくらっちまった奴らはもう…」

「………そうか…」

毒は、血液の変質を引き起こし、骨髄などの造血機能を破壊する。
また、肝臓など内臓などにダメージを与える恐ろしい物だ。
外の毒により、命を奪われた人間は、今までにもたくさん見てきたが、
共通するのは、見ているのも辛くなるような最後だということだ。
ザックスは唇を噛むと、心の中で十字を切った。

「だが幸い武器などは損なわれていない。全くの0からのスタートって訳じゃない。」

「…そうだな。俺も出来る限り協力する。」

多くの仲間を失ったというのに、冷静に現状を把握し、先を見据えた発言をするレジックに正直舌を巻いた。
だが、これは決して、仲間を失ったことを悲しんでいないという訳ではない。レジックはそんな奴ではない。
ただ、悲しんでばかりもいられない事を知っている。先に進むべきであることを知っているのだ。
そういう強さをレジックは持っている。だから、組織のリーダーとして仲間を纏めていけるのだろう。
そんな事を考えていると、不意に、視線を感じた。何だと顔を上げれば、先程からレジックの後ろに控えている青年と目が合った。
オレンジ色の髪の青年に、鳶色の瞳。見た事もない顔だったが、余りにも不躾に見てくるので、首を傾げると、視線を逸らされた。
何だ?とは思ったが、今はそんな事よりも、他に気になる事がある。
被害状況、それに伴う武器の発注数の変化、突入時の人員の配置等、細かい打ち合わせをしていると、またしても視線を感じた。
だが、今回は、視線だけではない。明らかな敵意を感じる。もう一度顔を上げると、今度ははっきりと睨みつけられた。

「…おい、レジック。こいつ、本当に信用していいのか?」

青年が、ザックスを睨み付けたまま問う。

「何だと?」

不審な空気に気付いたのだろう、レジックも図面に落としていた顔を上げて、青年の方を振り向いた。
だが、それでも青年はザックスから視線を外さなかった。

「だって、おかしくないのか?こいつ王子の癖に何で俺達に協力してくれるんだよ?」

成程。と思った。
先程から敵意を感じると思ったらそういう事だったか、と。
青年の言葉に、レジックの顔色がすっと変わり、怒りを孕んだものとなる。

「おい。ライパー、黙っとけ。こいつは違うんだ。」

「何が違うっていうんだ。こいつは王子だぞ?お前だって不思議に思った事ないのか?
王子としてのうのうと生きてきてるこいつが何で俺達に協力してくれんのか。
何一つ不自由ない暮らしをしていて、これ以上何を望むっていうんだ?
お前まさか王が死んだらお前が王になろうってんじゃないだろうな!?」

「おい!やめろこの馬鹿!誰にだって言いたくない事の一つや二つあるんだよ!!」

普段は温厚なレジックの余りの剣幕に気付いたのだろう。青年は押し黙った。だが、睨みつけるような視線は変わらない。
レジックは小さく溜息をつくと、すまなそうに掌と掌を合わせた。

「すまない。こいつ新人でさ。」

「いや、いいぜ。」

ザックスは小さく笑うと、オレンジ色の髪の青年に歩み寄った。
青年は警戒するように、一歩後ずさる。威嚇するように睨んでくる青年。
その棘だった気配は多くの仲間を失った悲しみから来ているのだろう。
この理不尽な状況の中で、誰かにやり切れない気持ちをぶつけたいのだ。
そう解っているから、ザックスは別段この青年に嫌悪を覚えなかった。
目の前に立つと、青年はザックスよりも随分と小さく、完全に見下す形になった。
それでも、負けじとザックスは見上げてくる。

「…何だよ。」

「あのさ、お前誤解してるみたいだから言うけど、俺が王子っつってもな、ただ王の息子ってだけだ。
王子らしい生活ができるようになってからあんま経ってねぇ。
…まだ、2年目かそこらかな。だから、未だにベッドなんかで寝られなくって床に寝転がってる位なんだぜ?」

からから笑ってやると、青年は眉を顰めた。

「…どういう事だ?」

「…色々あってさ、王子っつっても王のせいで、一時期は土民みたいな生活を強いられてたワケ。
ま、平たく言うと、俺も王に人生を踏みにじられた被害者の一人なんだ。それに…」

「それに?」

「母親を殺された。」

絶望を味わった者にしかできない暗い瞳に気付いたのだろう。青年は口を噤んだ。
余りに素直な反応に、小さく笑って、頭をぽんぽんと叩いてやった。

「じゃ、ま、そういうことで、頑張ろーぜ。」

ザックスは殊更明るい声で、言うと、後ろでに手を振った。







**





レジック達から姿が見えなくなると、ザックスは身体が震え出すのを止められなかった。情けない事に体中を冷や汗が覆っている。

「…やな事思い出しちまったな…」

ザックスは唇を歪めて自嘲した。
脳裏に顔もおぼろげにしか残っていない母が浮かぶ。
いつも、儚げで、完全に狂ってしまってからは、まるで少女のように振舞い、透けるような笑みを見せた。

母が死んだのは、ザックスの10歳の誕生日の日だった。
飛び散る内臓。骨の砕ける鈍い音。奇妙に折れ曲がった手足。グロテスクなオブジェ。
様々な映像が、脳に断片的に甦り、ザックスは口元を手で押さえた。
吐きそうだった。

ふらふらと覚束ない足取りで、塔の壁に寄りかかる。
手の震えが止まらない。

(落ち着けよ。もう終わった事だ。)

そう思えば思うほどに、手の震えも、吐き気も強くなり、ついにはザックスはずるずるとしゃがみ込んだ。
幾度も幾度も訪れるフラッシュバック。


ザックスの母親は、神の塔で働いていた女中であった。彼女は美しく、魅力的で、配属されて直ぐに王の目に留まった。
その頃彼女はまだ16歳だった。初恋さえ済ませていない初々しい女だったにも拘らず、王は彼女を無理矢理犯した。
そして、そのたった一回で、彼女は子供を宿してしまったのだった。
彼女は自分を陵辱した相手の子供が、腹の中で日に日に大きくなるに連れて、狂っていき、ザックスが物心をつく頃にはもう殆ど狂人と化していた。
ザックスも、彼女に抱きしめて貰った記憶は一度もなく、近寄ると脅えたような目を向けられ、ナイフを投げられた覚えしかない。
そしてある日狂いきった彼女は、ザックスが10の誕生日を向かえた日に窓から飛び降りて死んだ。
偶然だったのか必然だったのか、それは母がもうこの世に存在しない今となっては解らない。
だが、ザックスが外を散歩していた時で、彼女はザックスの目の前に落ちてきたという事実は変わらない。

飛び散る内臓。骨の砕ける鈍い音。奇妙に折れ曲がった手足。グロテスクなオブジェ。

視覚からも、聴覚からも、母親の死を認知させられ、それは消えない傷となった。
王に母の葬式を知らせに行った人物の話によると、一度は自分と契りを結び、自らの子を生んだ女が死んだと聞いても王は、
顔色一つ変えなかったらしい。ただ、金を渡して、もう二度と来るなと言ったそうだ。葬式にも来なかった。
ただ、義父母が養育費を請求するので、それだけは出していたようだ。
出していたようだというのは、自分はその恩恵に預かった事が一度もないためにそうとしか言えないのだった。
ザックスはいつも馬小屋のような所の、藁の上で眠っていたし、食事も十分に与えられた記憶はない。
王は全く子育てにも関与しなかった。気まぐれで抱いた女の産んだ子の子育てになど関与したくなかったからだろう。
王はザックスを女中の息子だとして、初めは、自分の子だとは認知せず、王子としての称号も得られないはずだった。
だが、その頃ザックスはゴミ捨て場から本を漁り、必死で読んで、みるみるうちに成績を上げていった。
16にして放たれる、ザックスの類稀なる才能に、「血は多少穢れていても、流石は『王』の子供だ」という評判が立ち、
王も、渋々ながら認知したと言う。
それからザックスは物にも食事にも衣服にも何の不自由も覚えなくなった。
もう、冷たい雨に身を曝されて、凍えるような思いをする事もなければ、飢えで夜中目を覚ますようなこともなくなった。
ただ、あの日の記憶はどんな生活をしようとも、悪夢として付きまとっていた。
解放された事など一度もない。そう、一度もないのだ。
そして今も。
懸命に他の事を考えるが、どれも、あの強烈な映像を掻き消すだけの力は持たない事は解っていた。
塔の壁に、胃の中のものを吐き出しながら、それでも、記憶の闇の中を手探りで進んでいく。
助けて欲しかった。この、闇の中から救い出してくれる何かに出会いたかった。
不意に、手探りだった指先に、何かが触れた。



『あんたはそれでいいのかもしれない』



(…あ…)

触れたのは光だった。
指先から全体に、光は伝導する。



『この世にたった一人位はあんたみたいな変わり者が居たっていいのかもしれない。』



そう言って微笑んだクラウドが脳裏に浮かぶ。
笑顔。
クラウドの初めての。
透き通るような、何の含みもない、ただただ、綺麗な。


「…………」

光に。
自分の心を覆って決して消えない闇が、塗りつぶされていく。
自然と震えが収まる自分を自覚する。
あれだけ心に巣食っていた悪夢が、確実に塗り変わっていく。
不意に思い出して、ポケットの中に手を入れた。その中の小さく、冷たい物に触れると、更に落ち着いた。
以前、クラウドに見せようと思って、見せそびれたものだ。
ふと、口元に微笑が浮かんだ。
何時の間に、と思う。
何時の間にこんなにも自分の中で占める彼の比率が大きくなっていたのか。
会いたい、と思った。
計画に必要だからではない。力を持つものだからではない。
ただただ彼に、クラウドという人間に会いたかった。
死なせはしない。計画は少し先延ばしになってしまいそうだが、それは寧ろ好都合だと考える事だってできる。
クラウドを説得して、絶対にここから連れ出してやる。
誰が何と言ったって絶対に諦めたりしない。
諦める事などできない。
それ位彼に惹かれていたから。



**


想いのままに、ザックスはロンの元へと足を運んだ。
鏡の前で、抜け毛を寂しそうに見詰めているロンに、後ろから声をかけると、びくりと大きく肩を震わせて振り向いた。
先程の切なそうな表情を見られているとは思っていないのだろう。取り繕ったように、「何か?」と聞いてくるのがおかしかった。

「なぁ、クラウドに会いたいんだけど。」

「…クラウド?」

初め不思議そうな顔で記憶を検索していたロンは、その名前の持ち主の身分を理解して、露骨に眉を潜めた。

「あぁ、また『穢れ』ですか。」

その、あからさまな侮蔑。
『土民』と呼んで蔑んでいる生き物も、自分と同じように名前を持ち、同じように傷つき、同じように赤い血を流す人間であるという、
至極当たり前な事でさえ、この男はきっと一生解らないのだろう。そう思うと、何だか複雑な気持ちになる。
だが、その感傷も、ロンの次の一言で霧散した。

「『穢れ』なら今、シェルター修復の現場に向かっています。」

「…………は?」

「普段は害になる『穢れ』ですが、ああいう危険な場所には最適な人材と言えますね。」

頭が真っ白になった。
クラウドが。あの、白くて、折れそうに細いクラウドが、果てしなく危険なあの現場に?
咄嗟に走り出そうとしたザックスの腕をロンが掴む。

「何処に行かれるのです。」

「決まってるだろ、クラウドの所だ。」

焦燥感に煽られて、手を振りほどいたザックスに、ロンは露骨な溜息を吐いた。

「…だから言いたくなかったんですよ。」

ロンが、言葉を言い終わらないうちに、全身の力が抜けていった。

「…な?」

急激に身体に広がる虚脱感。瞼が、凄まじい重力で持って降りてくる。
意識を失うその直前、ロンの手元に麻酔銃が握られているのが目に入った。